153
顔を洗って鏡を覗き込む。
見事にはれた瞼を見て、はあっとため息を吐き出した。
「……あたし、何やってんだろ」
――昨晩、ルカは無言で部屋を出て行ったきり、戻ってこなかった。
いつの間にか眠っていたらしい。
鏡の向こうから覗き込む顔に手をやり、瞼をなぞる。
「なんで泣いたりしたのよ……泣くような事なんてなにもないじゃない……」
赤くはれた目が睨んでくる。迫力もないし、ちっとも怖くない。
(ホント、泣く事ないのに……)
もう一度、冷たい水をすくって顔に叩きつける。指先がじんと痺れ、顔が冷たすぎてひりひりする。火照った瞼にはそれが気持ち良い。
ばしゃばしゃとまた顔を洗い、ほうっと息をつきながら顔の水をふき取る。
(ルカは何も言ってくれないしさ……あたしがいいって言ったんだけどさぁ)
昨晩は聞きたくなかったが、今になって気になってしまう。
(ねぇルカ。あたしは似てるの? ――ルカが愛した人に)
愛した人。
どきんと心臓が跳ねた。
ルカはその人にどのように接していたんだろう。どんな顔で話し、どんな顔で笑いかけていたんだろう。
考えただけで、瞼が熱くなる。
ぎゅっとタオルで顔を押さえ、泣いてしまわないように深呼吸を繰り返す。
「バカ、バカユーキ。今はそんな事どうでもいいじゃない。あたしにはやらなきゃいけないことがあるんだってば」
十日熱のこと、リビドムのこと、王位のこと、パティメートのこと。
考えなければいけないことは山のようにある。山のようにあるから一つずつ片付けていこうとしているのに、違うことを考えようとしてどうするのだ。
「そう、リビドムのこと、それからパティ、それから……」
昨晩聞いたロッティの言葉が頭を巡る。
「――パーシー」
タオルを置いて、窓辺に寄る。窓に掛かったカーテンをちょいと持ち上げて外をうかがうと、空は曇っていたが雪は降っていなかった。
「行ったら、会ってくれるかな……」
夏の日に交わした約束が果たせたとは思えないが、今の有希にはパーシーの協力が必要なのだ。
「なにをしてるの、パーシー……」
リビングのような――昨晩ロッティと話をした暖炉部屋へ行くと、ロッティが侍女の服をまとって朝食の準備をしていた。
手伝うと告げたら大慌てで「そんなことしないで下さい」といわれてしまい、無理矢理椅子に座らされた。
ロッティはてきぱきと食事の準備をしている。その姿を見ながら水を飲んでいると、ロッティが「そういえば」と言った。
「ルカさんから伝言がありますよ」
心臓がどきんと高鳴った。
「えっ」
「朝食が済む頃に戻ってくるから、外出の支度をしているように。だそうです」
「そ、そう……」
どきどきと心臓が痛い。
(なんだろう)
話してくれたりするのだろうかという考えが浮かんだが、次いで言ったロッティの言葉で、ほのかな願いは壊される。
「王城に入る手筈を整えてくるそうですよ」
「………………そう」
数秒前の自分を恨んだ。
淡い期待なんてするもんじゃないとはぁっとため息を吐いた。
「あ、何か都合の悪い事ありましたか!?」
「えっあっ! 違う、違うの! ロッテは何も悪くないよ! あたしが……」
(そう、あたしが)
「あたしが、駄目すぎるだけだから」
(なにかと理由をつけて聞かないようにしているのは、あたしだ)
勝手に傷ついて、勝手に泣いて、勝手に怒って。ふてくされて寝て。
本当はもっとやらなきゃいけないこと、考えなきゃいけないことがあるはずなのに、昨晩のルカの驚いた顔が頭から離れない。
昨晩から心にあいた穴がふさがらない。
やらなきゃいけないことがあるのに、どうしたらいいのかがわからない。
「何がわからないんですか?」
「!?」
はっとして顔を上げると、ロッティが両手で口を押さえていた。
「あ、ご、ごめんなさい。つい癖で……」
「癖?」
「はい、パティメート様もよくそんな顔をされていたので」
「パティが? ……あたし、どんな顔してた?」
聞くと、ロッティは少しだけはにかんだ。
「ええと、どこから手をつけたらいいのかわからないっていう顔。ですかね」
てきぱきと朝食の準備をしながらロッティが流暢に話す。
「パティメート様、最近ご自身で身の回りの事をやられる事が増えたんですよ。ただ――いつも、一番はじめが大変で」
「一番はじめ?」
「ええ。この間は紅茶を淹れる事だったんですけど、やることがいっぱいありすぎてどこから手を出していいのかわからないんです。お湯を沸かす、カップを準備する、お砂糖を準備する、茶葉を準備する。――一番効率よくやるのは、お茶を沸かしながらカップやお砂糖の準備する事じゃないですか。そうやっていっぺんにいくつもの事をするのが苦手みたいで散らかっちゃうんですよ」
「へぇ」
ロッティの話では、パティメートはとても不器用なようだった。
ケーレの塔で毎日運ばれてくる有希のスープが飲めなかったことを思い出した。あれも、パティメートが上手く運べなくてこぼしてしまっていたのだろうか。
「あとは、カップやポットを温める理由とかがわからないのでできない、とも仰ってました」
「できない?」
「そうなんです。紅茶は熱いお湯で淹れるから美味しいんですけど、それを知らなかったみたいで。――そうやってひとつひとつ疑問を解決させていたかないと、気になって仕方がないみたいで」
ふふっと笑うロッティに、有希は笑顔がこわばった。
――ひとつひとつ疑問を解決させていかないと気になって仕方がないだなんて、まるで今の有希のようではないか。
「そうだよね……だって気になるもん」
「そうなんですけど、パティメート様はなにがわからないのかすらわからないみたいで、最初は本当に大変で」
そんな会話をしている間に、テーブルの上に一人分の食事が並んだ。
「でも、そんなパティメート様を見てたら、わたしも頑張らなきゃって思うんですよ。パティメート様はご病気でいらっしゃるのに、治そうと一生懸命で」
「病気?」
「はい、詳しいことは知らないんですけど……お顔に表情がないのが……」
言って、はっとロッティは口を押さえた。
「王族の方の事って、こんな風に言っちゃいけないですよねきっと……き、聞かなかったことにしてください! あ、それからごはんできましたので!」
「あ、うん、いただきます!」
つられて大きな声で返事をしてしまう。ロッティは一人でおろおろしながら「セイムさんのせいだセイムさんのせいだ」と呟いている。
ロッティの作ったスープを一口すすり、ほうっと息をついた。
(ひとつひとつ……かぁ)
この胸に空いた穴の理由を、知らなければいけないだろうか。