152
少女はロッティと名乗った。ロッティはロッテと呼んでくださいと微笑みながら言っていた。
有希とルカはロッティの先輩の実家――今は休業中の宿屋に何故だか泊めてもらう事ができた。
部屋の用意をしながら『いいんですよ。部屋だって使ってあげないと痛んじゃいますし、セイムさんは絶対に怒りませんから。むしろユーキさんだって知ったら喜びますよ』と言っていた。セイムというのが先輩の名前らしい。
ロッティはてきぱきと家の準備を終え、気がつくと有希とルカの前に温かな紅茶が置かれていた。
「どうぞ。お砂糖はこちらです」
容れ物からルカが角砂糖を五つ入れるのをロッティはぱちくりと見つめていた。
「ロッテ……」
有希の声にはっとしたロッティが慌てて言う。
「すみません、なんだか心配をさせてしまって」
ロッティはくしゃりと苦笑いを浮かべると、カップを両手で掴んで考え込む。
何度か口を開きかけて噤み、それを二度繰り返してから深呼吸をして、ゆっくりと話し始めた。
「どこから話したらいいのかわからないし、わたしも詳しい事はわからないんですけど。……こちらへお戻りになってたパースウィル様が突然やってきてパティメート様を森の館――王城の北に、少し古い館があるんですけれど、そこへ軟禁したんです」
「軟禁?」
「えぇ。外へ出る事を禁じられたんです。私達もお城から追い出されてしまって……かといって館に住み込む事も禁じられて。パティメート様は毎日森の館でひっそりと暮らしてらっしゃいます」
「…………どうして、パーシーはそんなこと」
「わたしにもわかりません。ただ、ほかの侍女から聞いた話なんですけど、パティメート様が軟禁される前に言い争いをしている姿を見た人がいるって聞きました」
ロッティが軽く下唇を噛んでいる。目が潤んでいて少しだけ涙声になってきている。
「やっとパティメート様の表情が和らいできたって思ったのに、また元に戻ってしまわれて……。元々外に出たりする方じゃないので軟禁されていてもあんまり問題なさそうに見えるかもしれないんですけど、違うんです。人形みたいに一日中ぼうっとされてばかりで……それなのにわたし、何もしてさしあげることできなくて……」
ずずっと洟をすする音がする。眉間にぎゅっと皺を寄せて涙がこぼれるのを我慢していた。
「パティメート様は軟禁されてしまうし、魔物は出てくるし、地震も頻発するし……ホントわたしどうしたらいいのかわからなくて……」
「そっか……大変だったんだね」
ロッティははっと顔を上げて、顔を振った。
「いえ、いえ! わたしはぜんぜん! パティメート様の辛さを考えたらぜんぜんです!」
「ロッテはパティがすきなんだね」
「え!? も、もちろんです! 私達はみんなお優しいパティメート様が大好きなんです! 私だってパティメート様がいなかったらどうなっていたのかわからないですし……ホント、私が今こうして居られるのも、パティメート様のお陰ですから!」
「そっか……」
はっとしたロッティが照れ笑いを浮かべる。有希も釣られて微笑んだが、彼のことがひっかかる。
「パーシー……」
ぽそりと呟く。
最後に彼に会ったのは、アドルンドの豊穣祭の時だ。
治癒の力をなくした有希を励ましてくれて、お互いに頑張ろうと話をした。
それなのに。
(何を考えてるの?)
争いをなくしたいと言った彼に何が起きたというんだろうか。
「す、すみませんユーキさん。ヘンな事言って。ユーキさんたちにだって都合がありますよね。――王都に居る間はどうぞここを使ってくださいね」
ロッティの家ではないのにそんな事いいのかと聞くと、ロッティははいと答えて笑った。
外が吹雪いているのだろうか、カーテンの向こう側で窓が揺れている。
宛がわれた部屋――ルカと同じ部屋に入ると、一日の疲れがどっとやってきたようで、ロッティが整えてくれたベッドに倒れこんだ。
一日の殆どを馬の上で過ごしたせいで背中と腰が痛い。体格が変わってしまったからか、未だに慣れずにあちこしぎしぎし軋む。
ごろりと転がって考えるのは、先ほどロッティが言っていた言葉。
(パーシー……)
最後に会ったパーシーに、パティメートを軟禁してしまうような片鱗はあっただろうか。
思い返しても、考えられる事はない。
(何があったんだろう)
それを知るにしても、知らないでいるにしても、彼には会わなければいけない。伝えなければいけないことがある。
「なんて言うかな」
椅子に座って紅茶を飲みながら書類を見ていたルカが振り返る。
「――誰がだ」
「パーシー。リビドムを返してって言ったらなんて言うかな」
「面識あるのか」
「うん。――前に魔女にまつり上げられたときに」
言って、はっと思い出した。
――ルカは有希の胸の傷を気にしている。
失言だったかもしれない。
がばっと起き上がってルカを見ると、ルカと視線が合った。そして次の瞬間、ふいとそらされた。
あからさまなその仕草に、ずきりと心臓が痛む。
「――――ルカ」
「……なんだ」
視線は手元に落ちたままだ。灯りに照らされる長い指が書類に影を落としている。
「ルカ」
返事がない。
(こっち見てよ)
いつからだったろうか。ルカがおかしいと気付いたのは。
目が合わない、会話もどこかよそよそしい。
トウタ達と別れて、有希の身体が成長してからだろうか。
――ちがう。
有希の胸にある火傷の痕を見てからだ。
『あの人』と、かつての主人のことを口に出してからだ。
「ねぇ」
「なんだ」
返事はある。
なのに応えてもらっていない気がしてならないのはどうしてだろう。
心がすうすうと寒くて、服を、肩を、両頬をつかんで無理矢理確かめたくなる。どこを見てるの――あたしを見ているの、と。
唐突に、ナゼットが話してくれた話が蘇った。
『ちょっと嬢ちゃんに似てるかもな』
幼い頃のルカよりも、とても年上だったという女性。
鼓動が早くなる。
気付いてはいけない。
考えてはいけない。
その侍女は、ルカといくつ離れていた?
気付いてしまってはいけない。
今の有希はどんな姿をしている?
長い髪、華奢な手足。
(その人に……)
「あたしが、似てるから?」
ルカと目があった。
驚きで少しだけ目を見開いている。
気付いてしまった。口にだしてしまった。
そんなことをしてしまったら、涙が止まらなくなってしまうのに。
こぼれた涙が、頬を伝う。涙は暖かかったが、流れた途端に有希を突き放すように冷たい道を残す。冷たさから逃げるように、目をそむけるように次々と涙が通った。
「――ユーキ」
「いい」
それ以上なにも言わないで。
「いい」
きっと今は、何を聞いたとしても全てがつながってしまう。
なにもかもが『あの人』に繋がるように聞こえてしまう。
「いい……」
ぶるぶると頭を振って、全身で拒絶を表す。
「もう、寝る…………」
言って、ベッドの中へもぐりこんで無理矢理目をつぶる。それでも涙は瞼をこじ開けて流れ出てきたが、枕にこすりつけ、聞こえないように嗚咽をあげた。
どうしてこんなに苦しいんだろう。
どうしてこんなに辛いんだろう。
どうしてこんなに嫌なんだろう。
心に問いかけても、訴えても、返事はない。ただぽっかりとあいてしまった穴だけがその痛みを主張している。
その穴の名前が、有希にはわからない。
ルカのため息は一度も聞こえなかった。