15
扉を閉めると、途端にひんやりとした風が通り抜けた。
大きく一つ、溜息をついて目を閉じる。身体を占める憎悪をやり過ごすように唇をかみ締める。
――ホント、人間の欲望って尽きないわね。
鈴のような声が脳裏を巡る。あの憂い顔が、自分に気付いて微笑みかける仕草が、閉じた目の向こうに見える。
どれだけ見まいとしても、華奢な手首、儚い笑顔がまとわりつく。
ルカは手をぎゅっと握り締め、ゆっくり息を吐き、歩き出す。
「ルカ」
呼び止める声が聞こえて足を止める。ナゼットの声だ。
鈍いが妙に鋭いナゼットは何を思っているのだろうか。振り返る事ができない。
「飲みに行くだけだ」
何事でもないように、繕って言葉を吐き出す。長年掛けて冷えた心が、痛みを麻痺させる。
「軽率な行動だということはわかっている。――アイツを頼む」
それだけ言うと、ルカは歩みを進めた。
何も言わなかったナゼットは、一体何を思っただろうか。
だが、だからといって、ルカにはどうすることも出来なかった。
飲み屋に行くとカウンターの隅に座り、ルカは一番強い酒を頼んだ。
少しだけ驚いた顔をした店主は、しかしルカの要望どおりの酒を出した。
グラスに注がれた琥珀色のそれを、一気に煽る。店主にもう一杯頼むと言うと、今度は何も反応もなく出される。それも一気に煽る。
喉を焼けるような熱が通る。気が付くと店主にまた同じのを頼んでいた。
吐き出した吐息が熱くて重い。それが酒の所為なのか違うのか、ルカにはどうでもいいことだった。
(この感覚も久しぶりだ)
かつて、自分に責務や王家としての自覚がまだ足りない頃に、ルカはこうして酒場に足を運んでは飲んだくれた。
公の場や、部下の居る前ではこうも投げやりに飲むことは出来ず、いつしか酒を控えるようになっていた。
(俺も成長していたということか)
自嘲するように笑うと、酒を煽った。旨くもない、ただ自身に強烈なだけのものを取り込む。
脳髄を自分ではない何かが押し入る。麻痺するような感覚が広がる。
視界の端で、身体のラインがはっきりと判る派手な格好で赤い口紅をした女が、卑下た笑みを浮かべるのが見えた。髪も派手に下ろし、短いスカートからは肉質的な脚が惜しみなく出ている。女はルカを狙うような目で見つめている。
女とルカの視線が絡む。唇を引き結んで笑む女が立ち上がり、ルカの隣へと座った。
「ここ、いいかしら」
座った後に言うな。と内心で思いつつ「あぁ」と答える。
熟れすぎて腐った果物のような匂いが鼻腔に広がる。甘すぎて悪酔いしそうだ。と酒を煽る。
「この店に入ってきた時から見ていたわ――綺麗な人ね」
知っている。と、内心で言う。女は亜麻色の酒を片手で弄んでいた。
「それはどうも」
店主、同じものを。と告げる。女は身を乗り出してルカに迫る。
「ねぇ、こんな所でそんな消毒液みたいな安酒飲んでいるのは勿体無いわ――もっと良いところがあるの。飲み直さない?」
女が誘うような目でルカを見つめる。遊び歩いていた時期、毎日のように見ていた目だ。
その目を、ついこの間も見たな。と一人ごちる。
少女のことが頭によみがえる。餓鬼にしか見えない姿のどこに、あの妖艶な色香があったというのだろうか。
(馬鹿馬鹿しい)
立ち上がって出された酒を煽ると、女を見下ろした。
「――もっと酔い酒があるんだろうな」
女は醜いほどの笑顔を見せた。
「もちろんよ」
女はルカの腕に自分のそれを絡めた。
有希は夢を見ていた。
父に抱きしめられている夢。有希は今よりもずっと幼い。五、六歳だろうか。
夢の中で有希は泣いていた。理由を父に言うこともなく、どうしようもない悲しみを小さな身体でいっぱいに受け止めて泣いていた。
父は「どうしたの?」としきりに聞いてくれたが、答えることが出来なかった。
――ゆうきちゃんのお父さんの目、きもちわるいね
その日の幼稚園で、友達に言われた言葉だった。
有希にはそれがとっても悲しかった。大好きな父親を気持ち悪いと言われたことが悲しかった。そして、カラーコンタクトで隠しているとはいえ、自分の紫の瞳も気持ち悪いといわれたような気がした。
大好きな父に、あなたが気持ち悪いと言われたの。そう言う勇気はなく、ただ泣いていることしか出来なかった。
まばたきをするほどの間があって、有希はいつしか中学校の制服を着ていた。
十歳の姿にえんじ色のセーラー服が似合わなくて、有希はあまり制服が好きではなかった。
夕暮れ時の学校で、教室の窓際に座っていた。
窓から見える校庭では、運動部が各々部活を行っていた。それをぼんやりと眺めている。
どうしようもないような虚無感が有希を襲う。
どんな部活動をするにしても、小柄すぎる有希はなにも出来なかったからだ。
唯一自分を支えてくれたアーチェリーも、体躯が小さいままの有希は、公共の場に出ることを拒み、大会にも出ることをやめていた。
いつしかアーチェリーをやることすら億劫になっていた。
頬を一筋の涙が伝う。
十歳になった頃は、周りの皆よりも成長が早かったために、皆より大きかった。けれど、いつの間にか皆に背を抜かれ、どうしようもない焦りがあった。
ありがたいことに、周りの皆が有希の成長は早いうちに終わったと思ってくれている。だから、チビだということで皆からはもてはやされた。
もう成長の限界になっているだけだったらよかった。だが、有希は髪の毛も伸びないし、爪も伸びることがないのだ。
皆と一緒に過ごしている時は良い。そんな事考える暇もなく楽しかった。だが、こんな風に一人ぼっちになってしまうと、えもいわれぬ悲しみに飲み込まれてしまいそうになる。
「……だから、一人になりたくないのに」
なのに、自分はいつまでも窓際に座っていた。
ふと気付くと、今度は高校の制服に身を包んでいた。紺色のブレザーはとても小さいが、短いスカートがよく似合ったと思っている。
周りには、放課後を一緒に過ごしていた同じ帰宅部の友達が笑っていた。
毎日のように放課後はどこかに寄り道して遊んでいた。
中学時代に部活に打ち込んでいた友人達の幾人かは、高校に上がると同時に帰宅部になっていた。
有希はあまり家に寄り付かなくなっていた。あの父の瞳を見ると、自分も同じなのだと思い知ってしまうから。
誰かといつも一緒にいたいと思っていたはずなのに、有希は一人になりたかった。
カフェで友人達と過ごすのは楽しい。だが、時折ふと、自分の存在があやふやなものであるような気がしてならなかった。
かといって一人ぼっちになると、自分の存在がもっともっとあやふやなものになってしまう気がして途方に暮れる。
結局、有希はどうすることもできずに友達と笑っていた。
いつの間にか、悲しくても笑う術を手に入れていた。
ふと目が覚めると、有希は泣いていることに気付いた。
耳に入り込んだ涙の感触が気持ち悪くて、起き上がる。
――また、あの夢か。
途方に暮れる夢を見ることは良くあった。普段気にしないつもりで居るから、反動で夢に出てくるのだろうと思っていた。
時計も何も持っていない有希は今何時かわからない。有希の隣ではティータが寝息をたてて休んでいる。隣のベッドでは、ナゼットが腹を出して寝ている。
もう一度眠る気にならなくて、有希はベッドを降りる。
隣のベッドに行き、ナゼットの毛布を引っ張って腹部に掛ける。
月明かりで、室内を見渡すくらいには明かりがある。
有希は喉の渇きを感じて、ひっそりと外に出た。