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有希が穏やかな寝息を立て始めたのを確認し、ルカはゆっくりと手を外した。
熱のせいで赤い顔は息苦しさからか、顔が強張っている。
ルカの半分ほどしかない小さな手が、ルカの服をしっかりと握り締めている。
『くだらなくなんてないよ。あたしは、ルカの事もっと知りたいのに……』
膨れながらそう言った有希は、表情こそ拗ねた子供のようだったが、大人のような眼差しをしていた。まるでどんなことでも受け止めてやるとでもいうような目だった。
「ガキが、生意気な……」
生意気な事を。言いかけて、淀む。
「……俺も、まだまだガキだな」
言って、有希の額を撫でて前髪をかき上げる。額に掛かるほどしかない髪は、すぐに有希の額に戻る。
自分の中の問題から逃げて、それをトウタに指摘されて腹を立て、有希には心配されて。
自分自身への苛立ちから舌打ちが出る。はぐらかすように焚き火に木をくべる。
――ごめんね。
細い腕に抱きしめられ、絶望に打たれた日を思い出す。抱き返したら折れてしまうのではないかと思うほどか細い腕は、似つかわしくないほど力があって、苦しくて息ができなかった。
鼻先に当たる髪からはとても良い匂いがして、名残惜しくて涙が出そうだった。
――泣かないで。私は後悔なんてしてないわ。
そう言って微笑みながら涙を拭ってくれた。美しいひと。
次いで脳裏に蘇るのは、血を流して倒れている彼女と、その傍らに立ち尽くしていたオルガの姿。
「――――っクソッ」
大きく息をし、懐から酒瓶を取り出して一口含んだ。何度も何度もその瞬間が蘇るのは、未練と後悔からだ。いくら逃げてもつきまとってくるそれは、もうルカに染み付いて取れないのかもしれない。そしてその度酒に逃げるのも、永遠に続くのかもしれない。
口から酒気を帯びた息が出る。寒さと絡まって白い息となり、消えてゆく。
「…………ん……」
「――――」
ルカの服を掴んでいる手に力がこもっているようで、爪が白くなっている。
いつ見ても綺麗に切りそろえられている有希の爪が――伸びている。
「おい、ユーキ……」
有希が苦しそうに眉をひそめている。額に掛かるほどしかなかった前髪が、目を覆っている。
「ユーキ……おい、起きろ」
頬を数度叩くと、有希がうっすらと目を開けた。
「……ルカ…………痛い…………」
「どこが痛む」
「からだ……熱いし、痛い……熱い……」
身体を起こして痛みを訴えると、うわごとのように熱い熱いと繰り返し、幼子のようにほろほろと泣き始めてしまった。
「ルカ、あたし死んじゃうの……? 力が戻ってきたのも、最後のオマケみたいなものだったのかなぁ」
「……泣くな」
「いだぁ~い……」
泣いている子供のあやし方なんて知らない。知らないのでどう扱っていいものか持て余してしまう。有希は痛さからか子供返りをしたようにぐずぐずと泣き続ける。
――ルカート。泣かないで。
泣いている子供の扱い方なんて、これしかしらない。
ため息を一つ吐き出して、有希を持ち上げ、足の上に乗せて抱きしめる。ぐずぐずと泣き続ける背をとんとんと叩いていると、泣き声が止んで寝息を立て始めた。
横抱きに抱えなおして、目尻に溜まった涙を拭う。心なしかまた髪が伸びたようで、肩にかかる程度だった髪が鎖骨あたりまで伸びている。有希は無意識なのだろう、ルカの服をぎゅっと握り締めている。――また少し、爪が伸びている。
「…………」
有希の身体が成長している。
『あたしは十八よ!』
ひどく腹を立ててそう言っていたのは、ティータをケーレに連れて行くと告げた時だった。
有希の国とこちらでは暦が違うのかとその時は思ったが、共に過ごすうちに有希が見た目以上に――無謀だが大人びていたので、なにか事情があっての事だろうと思っていた。死んでしまうのかと不安を口にしたのだから、有希自身にも理解のできない事なのだろう。
足音が響く。慌てた足音が近づいてくる。
「姫様!」
トウタが返り血を滴らせて立っている。眠っている有希を抱きかかえているルカを見て一瞬わかりやすいほど苦い顔を浮かべると、有希への配慮だろうひそめた声で言った。
「魔物が出た。――小屋に出た女と、四体の狼だ。狼は排除したが、女が消えた。また出てくるかもしれないから移動をしよう」
トウタはてきぱきと荷物をまとめ、無理矢理にルカに背負わせた。
「おい」
「なんだ、文句は聞かん」
ずしりと背中が重い。おまけに抱きかかえている有希も次第に重くなっていっているような気がする。
「――――さっきちらと魔物の姿が見えた。ソレを引き止めておくから、その間に逃げろ」
「アイツはどうした」
「食われた」
「…………そうか」
(知ったら、また泣くだろうな)
荷物を背負いなおして、ルカもまた身支度を整える。
「先に行って出口から引き離す」
「あぁ」
出口へと数歩行って、トウタが振り返る。
「行く前に聞く。――姫様はお前にとって何だ」
「…………」
「答えろ。でなければお前を囮に放り出すぞ」
いつ魔物がこのほら穴に気付いてやってくるかもわからないのに、何を悠長な事を。そう言おうとしたが、トウタはそんなことはわかっているという目をしていて、二の句を告げなかった。
ため息を一つ吐き出す。
(そんなもの、俺が知りたいくらいだ)
――ルカにとっての有希。
初めは義務でしかなかった。物を知らず、言う事を聞かず、あちこち首を突っ込む姿に辟易していた。
いつの間にかくるくると変わる喜怒哀楽の表情を見ていて飽きないと思っていた。
オルガに捕らえられて意識を失い、再び目覚めた時の有希はこちらの世界の事を沢山知ったようで、瞳の色味が深くなっていた。
リビドムに向かう事になってから、あまり笑わなくなった有希。
「…………」
「やっぱり、ただ都合がいいっていうだけか?」
「アンタには関係ないだろう」
カタカタと音がする。トウタが震えている。
「お前には関係がないかもしれないがな、俺にはあるんだよッ! 姫様は俺を選ばない。お前が居るからだ。姫様を求めてやまなかった、願ってやまなかったんだよ、その位置を! …………俺は姫様の為に命を賭すことなんて造作もないんだ。なのに姫様が、お前を選んでいるんだ…………見せろよ、お前の覚悟を」
「…………暑苦しいな」
「はぐらかすな!」
「別に悪いと言ってる訳じゃない。……コイツは幸せ者だな」
トウタの大きな声も耳に入らないのか、寝息を立てている。
「何か勘違いをしているようだが、コイツの俺への好意は雛の刷り込みのようなものだ。――王族だと知られる前、右も左もわからないコイツを拾って保護したんで、懐かれた」
「…………」
「昔はよく笑うガキだったんだが、最近神妙な顔ばかりするようになってな」
「…………」
「アンタも知っている通り、俺はアドルンドでは邪険に扱われていてな。何をしたいという事も無かった――今は、またコイツが笑うようになればと思っている」
そういえばここのところ、泣き顔ばかり見ている気がする。
ただただ、笑っていれば良いと思う。
「…………今度こそ、死なせはしない」
もう二度と味わいたくない、指から指輪が消えてゆく感覚。
「――――これを持って行け」
言って、トウタは銅色に光る指輪を差し出した。――茶の騎士の指輪。
「リビドム王が行方不明になられて国が荒れて……そんな中、王女が存命だったと知った時の俺たちの気持ちなんて、お前には理解できないだろうな。俺にとっての姫様は、リビドムの希望なんだ。だが……お前にとってはリビドムの王女ではなく、ただの少女なんだな。――身分ではなく、個人として姫様を尊んでいるなら、お前を選ぶのも……不本意だが納得だ」
有希のもとへやってきて、眠っている有希の首に紐を通した指輪をかけて手に握らせた。
「お前の言葉が足りないせいで、姫様は不安で、指輪が手元にないだけで泣いてらしたぞ。笑って欲しいと願うなら、ちゃんと安心させてやれ」
そう言って、踵を返した。
「……姫様は、俺たちの全てなんだ。――すぐに追いつくから、命に代えてでも守っていろよ」
トウタは走って出て行ってしまった。
「そんな事はわかってる」




