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それの発生はいつも唐突で、何度遭遇しても慣れない――慣れたくもないけれど。
山を登る景色は似たり寄ったりだったが、足首が雪で埋もれる程積もった山景色は、果てしなく同じ景色だ。
飽きてしまいそうな景色だが、こうやって唐突に魔物に襲われるなら、飽きてしまったほうが数百倍マシだ。
「早く! 早く行って!」
「なりません姫様!」
「だって、だってみんな行っちゃったよ!? あたし達も行かないと!」
トウタの腕を思い切り引っ張っても、びくともしない。
早く、早く行かなければと気が急く。
「大丈夫です姫様! 今皆が向かいましたから!」
「でも!」
「これが初めてではないんですから、大丈夫です! どうか、どうかお気をしっかりお持ちください」
リビドムを出てルカと離れるのはこれが初めてだから、こんなにも不安を感じるんだ。何度も魔物には遭遇しているんだから、落ち着かなければならない。わかっているけれど、気持ちが追いつかない。胸のあたりがざわざわとむず痒い。
「わかってる!! わかってるの。今あたしが行っても役立たずなのはわかってる。何にも役に立たないんだから、これ以上足を引っ張らないようにしなきゃいけないのもわかってるの……」
うずく胸元で両手を握り、祈るように自分に言い聞かせる。両手がぶるぶると震える。
「大丈夫、ルカもみんなも強いんだから、今まで大した怪我もせずに来られたんだから、大丈夫。大丈夫なんだから、止まりなさいよ……」
何度大丈夫だと言い聞かせても、不安が拭えない。心の奥から叫び声が聞こえる。
何かがおかしい。
今回はどこかが違う。
鼓動が早くなる。何か、何かが違うのだ。
一体なにが違うのだろうかと辺りを見回す。雪化粧を施された景色は、真っ白で眩しい。その中に闇を落としたような紫の霧が、底冷えのするような存在感をかもし出している。
そして、いつもの景色と違うモノがわかった。
「…………霧」
「姫様?」
「トウタさん……霧が」
「霧?」
「霧が、消えてないの……どうして?」
今まで、魔物が出現する際に霧が発生し、魔物が現れると共に消えていたはずの霧が。
「……まさか」
トウタも異変に気付いたのか、驚いたように霧を凝視している。
「どれだけ、居るっていうんだ……」
唖然とした声が聞こえる。霧が消えていないという事は、今でも魔物は発生し続けているのだ。
――あの霧を見つけてから、どれくらいの時間が経った?
「っトウタさん、降ろして!」
「姫様!?」
「あたしをここに置いて、行って!」
「なりません姫様! 姫様は山の病に掛かってらっしゃるし、大体今ここで魔物が出てきたら、誰が姫様をお守りするのですか!」
「じゃぁあたしも連れて行って!」
「なりません!」
「なら降ろしてよ!」
「なりません!」
「お願い!!」
渾身の力を込めて叫んだが、声はかすれて息があがる。脳に酸素が回らなくて頭がくらりと揺れ、トウタの腕にぶつかった。
「――っこんな状態の姫様を、置いて行けるはずがありませんっ……」
ぎゅっと手綱を握る手に力がこもるのが見えた。
(そうだ、リビドムの兵だって……トウタさんの部下も戦ってるんだ……行きたくないはず、ないじゃない)
トウタにもたれながら、息を整える。
「あたしに、できること……」
何があるだろう。
高山病にかかって、一人ではろくに動けもしない、自分にできること。
「そんなもの決まっています! 無事にマルキー城に着いて、リビドムを取り戻すのです」
「リビドムを……」
「その為に……皆戦っているんです。――どうか、お忘れなきよう」
言うと、トウタは馬首を翻して進み始めた。
「どこに……行くの……」
「進路を変えます。少し傾斜がきつい方から回ります。――早いところこの忌々しい山は降りましょう」
「降りるって……みんなは?」
「……きっとあの騎士でもこうしたでしょう。私だってそうします」
「トウタさん!」
「あいつらが無事なら私の指輪を頼って追って来るでしょう。――姫様、どうかお忘れなきよう」
「なにそれ、みんなを見捨てるっていうの!? イヤ! そんなのは絶対に嫌! 行くならトウタさん一人で行ってよ!」
言い過ぎている。自分でもわかっているけれど、止められない。
「姫様……失礼致します」
そう言うとトウタは有希のわき腹に腕を回すとぎゅっと掴み、思い切り馬を走らせた。
「嫌! イヤだってば! 放して!」
「姫様、舌を噛みます。どうかお静かに!」
「イヤ! 戻って!」
じたばたと暴れてみたが、わき腹にがっちりと食い込んだ腕はびくともしない。
「お願い、戻ってよ……」
だってまだ、謝ってもいない。
ルカに酷い態度をとってしまったままなのだ。
有希の為にと戦ってくれている人だっているのだ。
置いて行くなんて事、できない。
「……姫様」
「…………やだよぉ」
どうしていつもいつもこうなんだろう。
守られてばっかりで、甘やかされてばっかりで。
それなのに自分は、いつも気付くのが遅くて。
悔しくて悔しくて、涙がこぼれる。
気付いた時には、もう遅い――。
右手の指輪をつけている場所が、ちりっと痛んだ。
昼がどんどんと短くなってゆく。正午を過ぎるとあっという間に暗くなる。
有希とトウタは日が沈む前に小屋に辿り着いた。トウタがもの凄い早さで薪を用意して暖炉に火を灯してくれたので、小屋の中は暖かかった。かび臭かったが毛布まで置いてあった。
暖炉の前に無理矢理寝かされた有希は、泣きすぎた事と疲労とでされるがままに横になっていた。
頭が上手く働かない。
ここはどこだろう。
あれからどれくらい時間が経ったのだろう。
ルカは、皆は大丈夫なのだろうか。
暖炉の明かりを受けながら、指輪を揚げた。
この指――指輪が熱を持ったみたいに熱くなったような気がしたのだ。
指輪を外して指を見てみたが、火傷をしたようには見えない。
あのちりりとした痛みはなんだったのだろうか。――ルカに、何かあったのだろうか。
「指輪は、まだあるんですね」
声が聞こえて、はっと振り返ると、トウタが食事を持って立っていた。じっと指輪を眺めていたのをトウタに見られていたらしい。なんだかそれが恥ずかしくて、かぁっと顔に血が昇る。
「う、うん……」
いそいそと起き上がり、トウタが差し出してくれた食事――白濁色のスープと、かちかちに固まったパンを受け取る。固まったパンは有希の力では到底ちぎれないので、スープにひたしてふやかす。
久し振りにこんなまともな食事をするなぁと、パンをスープに浸していると、トウタがぽつりと呟いた。
「まだ、生きているんですね」
「……え?」
スープに波を立てていたパンが動きをやめる。
「あの騎士が見捨てていない限り、他の騎士達も生きている可能性が高いですね」
「ルカは、見捨てたりなんてしないよ。きっとみんな……生きてる」
生きている。生きていて。祈りを込めるように告げる。
ふやけたパンを齧り、温かさを噛みしめるように目を閉じた。
(早く元気にならなきゃ。元気になって、みんなを探しに行くんだから)
そうして、みんなでマルキー城に行くのだ。
「……随分と、御執心なのですね」
「?」
「あの男のどこにそんな魅力があるんです? 剣術ですか? 顔ですか? ――姫様は、あの男のどこがそんなに……っ」
(…………剣術? 顔?)
ぽかんと口が開く。トウタはしまったという顔をし、ばつのわるそうに目を逸らした。
「トウタさん、言ってる事がよくわかんないんですけど……」
「~~~~っ姫様は、リビドムの王位を継がれる方です」
「……はい」
「それなのに、あんなまだガキを……いえ。あのような男と軽々しく契約をしてしまった軽率さを、俺は言ってるんです」
――軽率さ。
トウタの放った言葉が槍のように有希の胸を射抜く。
他人から見たら有希の契約は軽率なものかもしれない。
けれど、その『軽率さ』から生まれた何かがあるのだ。それは今の有希にとってかけがえのないもので、とても大切なものなのだ。
「…………不謹慎ですが、正直に言いますと、俺はあの男を殺したいほど憎いです」
「どうして……」
「姫様の好意を利用し、つけ込んでいるのに、姫様ご自身は気付いてらっしゃらないであの男を庇ってばかり。……それが、悔しくてたまらないんですよ、俺は」
「……え? 好意? 利用?」
「姫様はリビドムを救ってくださる為に決起してくださったというのに、今の姫様はリビドムよりもあの男の事ばかり気に掛けてらっしゃる。――あの男と出会うもっと前に俺が姫様にお会いしていれば。出会っていればと、そんな事ばかり考えてしまいますよ」
トウタが苦笑いを浮かべる。有希はきょとんとトウタを見ることしかできない。
この人はなにを――。
「姫様」
ささやくような声が、いつくしむような声が、いとおしむような声が、有希を硬直させる。
「あんな男やめて、俺にしませんか?」
この人はなにを言っているのだろう。