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しんと空気が冷えている。冷えた空気はいつもよりも音を大きく届けるのかもしれない。
だって今、トウタの言った言葉がこんなにも反響している。
「リフェ、が……?」
「ええ。そういう通達です」
「どうして……」
「もしも私達に何かあった場合、姫様の騎士には姫様を守ってもらう為に体力を温存してもらうという話です」
それまで険しい顔をしていたトウタの顔がほころんだ。
つられて有希の顔もゆるむ。
やられてしまった。計られてしまったのか、と照れ隠しの苦笑いを浮かべてしまう。
「――っなんだぁ! それならそうと、言ってくれればよかったのに……あっ、あたし、トウタさんに酷い事言っちゃってごめんなさい」
慌てて頭を下げる。下げて、上げて、伺うようにトウタの顔を覗くと、トウタはもう笑みを浮かべていなかった。
「――まぁ、そんな心配はないし、あの人の余計なお世話だっていう話です」
「…………え?」
トウタがむすっとした顔をしている。その表情は初めて会った時のように、有希との間に壁のようなものがないような表情だ。
けれども、どうしてトウタがそんな顔をするのかがわからなかった。
「俺達が姫様を危険な目に遭わせる事なんて無いですし、あの騎士――リビドムに来る時に姫様を助け活躍したと聞きましたけど、もしその場に俺が居たら、そもそも姫様を危険な目になんて…………」
突然、トウタがはっとしたように言葉を打ち止めた。何だろうとトウタを見ていると、急にトウタが無表情になった。
「単に、俺があの騎士を嫌いなだけですよ。だからあの人の命令にかこつけて、頭数に入れていないだけです」
「え?」
「アイツを見ていると、昔の俺を見ているようで嫌なんですよ。――逃げてばかりで、何とも向き合おうとしないで斜に構えて。そんな奴が姫様の騎士だっていうのが、不愉快で不愉快で仕方がないんです」
「逃げ……え?」
この人は一体、誰の事を言っているのだろうか。言っている意味がよくわからない。
(ルカが、逃げてる?)
「姫様はまだお若いですし、わからなくても仕方がないでしょう」
「――っそういう風に言うの、やめてください。……ルカが何から逃げているっていうんですか」
「自分自身ですよ。今の彼には、自分というものがない」
「そんなこと、ない……」
「言い切れますか? なら何故、彼はリビドムに来たんですか。逃げて来たからじゃないんですか? 王族である自分から」
どきりと心臓が跳ねた。
ルカは国を捨てたと言った。
けれどもそれをトウタは、逃げたと言った。
「姫様の騎士は、剣の腕は確かかもしれませんが、王族として認められていなかったというではありませんか。――それが嫌で、逃げてきたんではないんですか」
「っそんなことない! ルカは!」
ルカは、苦しい思いをいっぱいしてきた。
ルカは、国を捨てたかった。
ルカは、今有希の為に色々尽くしてくれている。
ルカは、ルカは、ルカは。
「~~~~っ」
言いたいことはいっぱいあるのに、どうしてだろう。言葉にならない。
「姫様が『こうしたい』と言えば、あの騎士は叶えてくれるんですか」
「っ叶えてくれるよう、努力するって言ってくれた!」
「そうですか。ですがそれはどうしてだか、考えたことがおありですか?」
「…………?」
「一国の王子が、どうしてそんな簡単に言えるんでしょう? どうしてそんな簡単に姫様の意向に沿うことができるんでしょうね。――彼は姫様と契約するまで、一体何を目標としていたんです? 何を成そうとしていたんですか」
トウタはルカが逃げたというが、逃げ出したいのは有希だ。聞きたくないと耳を塞ぎたい。これ以上トウタの言葉を聞き続けていたら、有希が考えまいとしていたことまで無理矢理引きずり出されてしまいそうだ。
「あの騎士は、姫様を守るという大義名分を理由に、自分自身から逃げているんですよ。姫様は体のいい理由に利用されているんですよ!?」
(ちがう)
脳裏にオルガの歪んだ笑みがよぎる。
(やめて)
シエの美しい姿がちらつく。
(考えたくないの)
見たことも無い黒髪の女の後姿が見える。それが、ルカの侍女――ルカの、前の契約者だという事が直感で判ってしまう。否、きっと有希が想像で作り出した人物なのだ。
認めてしまってはいけない。
頭の中で誰かが叫ぶ。
認めてしまうと、だめだ。
「――違いますか。違うなら言って欲しいですね」
その言葉は有希に投げかけられたものではなかった。はっと振り返ると、仏頂面のルカが立っていた。
「…………ルカ」
いつから、とは聞けなかった。きっとトウタは有希の後ろにルカが居たことを知っていた。
「…………ユーキ、行くぞ」
「え」
ルカは何事も無かったかのように有希の元へとやってきて、誘導するように有希の背中を軽く押した。
「反論、なしですか」
「…………」
「っ出来ることなら、アンタを殺して俺が姫様の騎士になりたいと思うな」
驚いて足が止まる。有希の背に手を添えていたルカの足も、有希につられて止まる。
(…………え?)
振り返ってトウタを見る。トウタと目が合うと、あからさまに逸らされてしまった。
隣から、鼻で笑う声が聞こえた。
「できるなら、やってみろ」
背中をぐっと押され、また歩き出す。途中一度、後方をちらりと見たが、トウタはいつまでも目を逸らした姿のまま、立ち尽くしていた。
一時前まで、あんなに――不謹慎かもしれないが、楽しかったのに。一転して、今はひどく虚脱してしまっている。
「どうして否定してくれなかったの……」
ぽそりと、口から言葉がこぼれた。
反応は、ない。
「聞いてたんでしょ、ルカ。それとも、トウタさんの言ってたこと、本当なの?」
ルカに変化はない。
息苦しくて息苦しくて、なんだか泣きたくなってくる。
考えたくなかった事に思案をめぐらせてしまったためか、こめかみの奥の方で疼痛がする。心なしか眩暈までしているような気がする。
「ルカはいつもそう。鉄面皮で仏頂面で……少し近づけたかもって思ったら、そこには壁があって……やっと傍に来たって感じても…………やっぱりルカはどこかあたしに距離を置いてる」
ささやきのような声は、ルカの耳に届いているだろうか。
「こんなに……近くにいるのにさぁ」
頭痛が酷くなった気がする。目の前を闊歩している馬の尻尾が二重にかすむ。二三度瞬きをしても変わらない。
寒い空気の中貫頭衣の中だけ暖かいからだろうか、眠気が有希を襲う。
「寝るな」
(それ、聞いたことある)
どこか既視感を感じて言おうとしたが、口を開くのもひどく億劫だった。
背中から聞こえる鼓動が、やさしくてあたたかい。有希に訪れたとろとろとした眠気に否応なしに引きずり込まれる。
「おい、ユーキ」
(あ)
ルカがため息を吐く予感がした。誰でもそうだろうけれども、ため息の前には思いきり息を吸い込むんだな、と今更ながらに実感した。
案の定、ルカはため息を吐いた。ちっとも嫌な感じはしなかった。
「あ」
「…………なんだ」
白くかすむ視界の中で、ほろほろと落ちてくる小さくて白いものを見つけた。
「ゆき」
(変なの、こんなに暖かいのに、雪が降ってる)
ふふ、と笑みがこぼれる。
「ねぇルカ」
「……なんだ」
「あたしは、ルカの事ぜんぜん知らないし、なに考えてるのかもわかんない。聞いても教えてくれないし、ルカ意地悪だし」
「…………」
「でもね、そんなあたしでもルカの事でわかることがあるんだよ。ルカは嘘をつかないって知ってるんだから」
「…………」
「なんか言ってよ…………バカルカ」
「…………」
「あたし、明日からトウタさんの馬に乗せてもらうね」
心はすさんでずきずきと痛むのに。
身体はこんなにもあたたかいのに。
この腕の中は居心地が良すぎて、息が苦しい。