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三つ目の肉刺が潰れた。
アインは木の幹に座って、感慨なく両手を見下ろした。
できた肉刺は左右に三つずつ。そこから左右一つずつが潰れていたが、先ほど右手の肉刺がもう一つ潰れた。
――慣れないことをするからだ。
苦い笑みを浮かべて、もう一度斧を掴む。不思議と痛みは感じなかった。
白い息を吐き出して、薪割り場に向かう。
有希とルカが旅立ってから、どれくらい経っただろう。時間の感覚がおぼろでよくわからないが、そろそろ山を越えている頃だろうか。
なのに気分はもう三年以上も待っているようだ。
やるべきことが見当たらず、アインはこうして慣れないことばかりをし続ける。ある時は掃除であったり、煮炊きであったり、洗濯であったり。どれも失敗しては怒られ、長続きはしなかったが。
割るべき薪を台に載せ、あまり力の入らない腕をのろのろと振り上げたとき、叫ぶようなティータの声が耳にとどろいた。
「アイン!」
ぴくりと肩が動いて、斧の軌道が逸れる。薪の端を斧がかすめ、ものすごく薄い板ができた。
「こんな所に居たのね! 探したわ!」
振り返ると、廊下の窓から身体を乗り出しているティータが見えた。どのくらい走ったのか、顔は紅潮し、息は瞬く間に真っ白なものに変わる。
「ティータ……」
「リフェノーティスさんが、会議の部屋に集まってくれって! お兄ちゃんはもう行っちゃったわよ!」
先日の出来事なんてなかったかのように振舞うティータに、心の奥ががぎりりと悲鳴をあげる。
所詮はその程度なのだ。
自分にそう言い聞かせて、アインはにへらっと笑う。指からずるりと斧が落ちる。
「ありがとうございます。今、向かいます」
(手、熱い)
今更痛みを主張しだした手がじんじんと痛む。しびれたように痛み、思うように指が曲がらない。
(今だけだ、今、痛いだけ)
そのうちこの胸の痛みは、肉刺と同じように、ゆっくりと癒えてゆく。
振り返り、ティータが顔を出していた窓を見ると、もうティータの姿は見えなかった。
アインは名残惜しげに一瞥し、ふるえる指で薪と斧を片付けると、その場を後にした。
ナゼットはわなわなと震え、やり場のない憤りを、握り固めたこぶしにぶつける。少し伸びかけていた爪が食い込んで痛みを主張したが、かまっていられない。
「どういうことだ」
自分の座っていた椅子が倒れている。思い切り立ち上がったために倒れたのだ。
大きな音をたてたのに、その場に居る誰も微動だにしなかった。ナゼットのすぐ向かいに座るリフェノーティスも例外ではない。
「だから、私達は兵を出してマルキーに向かうと。その言葉の通りです」
隣に座ったアインが驚きのあまりに口をぱくぱくさせている。ナゼットも同じ気分だった。言葉にならない。
「オメェ、嬢ちゃんが言ったことに文句ねぇっつっただろうがッ! 嬢ちゃんが身体張ってマルキーに乗り込むっつってたの、アンタも聞いてただろ!?」
けれどもリフェノーティスは至極冷静だった。
「ええ、聞いたわ。従うとも言ったわ」
「ならどうして!」
「何事にも保険は必要なの。ユーキ様の交渉が失敗して兵を出す事になったとして、その時今よりも魔物の発生が激しくなっていたら? 雪が深くなってユーキ様のところへ容易に行けなくなってしまったら? ――そう考えたら、早いうちに準備したほうが賢明でしょう?」
何がいけないのかしら。言外にそう告げるように、リフェノーティスの顔はぴくりとも動かなかった。それが更にナゼットの怒りを逆撫でた。
「――っアンタの言い分もわかる。だがな、嬢ちゃんの決意を何だと思っているんだ!!」
「上手くいったら儲けもの、というくらいかしら」
だん。と大きな音が耳に入る。次いで手のひらへの衝撃。
「ふざけるな! アンタは今、嬢ちゃんやルカ、選ばれて嬢ちゃんと行動を共にしている人間を侮辱したんだぞ!」
「そのようなつもりはないわ。私達はただ、リビドムを取り戻したいだけよ。――その為なら、どんな事だってするわ。彼らに課したことだって、マルキーとの話し合いよりもユーキ様の命を何よりも第一に考えなさいと伝えてある。何か問題が?」
リフェノーティスを睨みつける。深緑の瞳はかたくなで、意思を曲げるつもりは無いと主張している。
「……騙したっていうのか」
「心外な事を言うのね。分の悪い話し合いだということはユーキ様ご自身も理解なさっている。それでも希望を持っていらっしゃるのに私達が手助けしない訳にはいかないじゃない。――たとえ結果が、貴方の言うようなものだとしても。けれども、アドルンドの貴方達には騙す形になってしまったわね、申し訳ないわ」
リフェノーティスの周りの人間は黙っている。黙りながらナゼットを見る人、ちらちらと伺うように見る人、あからさまに視線を逸らす人と様々だった。
(――あぁ、これ以上話してもムダなんだなぁ)
決まったこと。それを今話されている。これは会議でもなんでもない。事後報告だ。
そう気付いてしまったら、体中から力が抜けてしまった。
(オレじゃ、変えられない)
手に込められた力も弱まる。途端に痛みが強まり、傷口から血が滲み出る感覚が手のひらに伝わる。それを合図に、ナゼットはくるりと踵を返して部屋を出ようとする。アインが所在無げな視線を投げてきたが、それに苦笑で返して歩みを進める。
「気を悪くしてしまってごめんなさい。結果としてそうなったけれども、私達全員の総意ではないことは知っていて頂きたいわ。――リベラート様」
「……ソイツはオレじゃなくて、オヤジに言ってやってくれ」
「それから」
ナゼットが扉の取っ手に手を掛けた時、リフェノーティスが声を掛けてきた。
「先だって、アドルンドからお客様がいらっしゃっているわ。客室にご案内しているので後で侍女に場所を聞いてくださいね」
「なんだって!? 何故迎え入れた!」
「リビドムには今、アドルンドからやってきた人々に対して争いを起こせるほど余裕がある訳ではないし、彼らに戦意がなかったからよ。城に入るときに武具は預かったの」
言って、リフェノーティスがアインに向き直った。
「どうやら、レーベント家のご子息を迎えに来たそうよ?」
アインとナゼットは驚いて顔を見合わせた。
ルカを迎えに来たのならいざ知らず、どうしてアインなのだろうか。