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息の白さが更に濃くなったようなきがする。鼻から吸い込む空気は冷たく、頭にキンと響く。
毛糸の帽子、耳当て、襟巻きと完全防備の有希は、貫頭衣――ポンチョのようなものを二枚重ねで着込んでいた。
一つは有希の身体のみを覆うもの、そしてもう一つは、ルカと有希二人を覆うものだった。
――その二つ目の貫頭衣が、有希の頭を悩ませていた。
背中がとても温かいのは助かるし、ルカの腕の間にすっぽりと嵌ってしまうので両腕も温かいしとても快適だ。
(近い、近いんだってば……)
じりじりと前にずれて離れてみたが、『隙間を作るな、寒いだろうが』と怒られて腹部に手を回されて引っ張られ「うひゃぁ」と声をあげて眉を顰められた。
近い、心臓の音が聞こえる、近い、心なしか良い匂いがする、近い、暖かい、近い、近い。ちかい近い。
なんだか悔しい気持ちでいっぱいだった。
なんでルカはこんな平然としているんだ、と。
(ちょっとはさぁ……)
心の中で毒づくが、続きの言葉が出てこない。
(ちょっとは……何だろう。あたしはルカに、どうして欲しいんだろう)
そもそもルカがどうしたいのかすらわからないのに。
(そう、ルカはどうしたいんだろう)
山は馬の蹄の音以外、恐ろしいほど何も聞こえなかった。
葉の無い木々が昼間は暖かな日差しをくれるが、今はどんよりと分厚い雲が空を覆って薄暗い。その為時間の経過も分かり辛い。
どれくらい山を登っているのだろう。あとどれくらいで山を越えることになるのだろう。マルキーに着いたとして、有希はどうしたらいいのだろう。
知りたいことは山ほどある。考えなければならないことも山ほどある。けれども気になる事があって、それらに考えが及ばない。
気になること。
気になって仕方のないこと。
――それは、有希の後ろで馬を操っている、有希の騎士。
ここ最近、有希自身の様子がおかしい。
理由はよくわからない。
理由はわからないが、気になるのだ。
何も話してくれない、それなのにいつでも有希の味方で居てくれる、ルカの事。
(ねぇ、ルカ)
心の中で問いかける。
聞けばこたえてくれるだろうか。
ルカのことを知りたいのだと言えば、教えてくれるだろうか。話してくれるのだろうか。
ねぇ、ルカ。
言いかけて、口をつぐむ。
(やっぱり、聞けないよ)
一歩が踏み出せない。ルカとの距離が推し量れなくて、足踏みしてしまう。
「なんだ」
「!?」
驚いて振り仰ぐと、ちらりと俯き加減に有希を見る。その近さにどぎまぎし、有希はふいと俯く。
「呼んだだろう。何だ」
「えっ」
不機嫌そうな声が聞こえる。低い振動が背中から伝わる。
「寒いのか」
「うっううん」
慌てて違うと首を振ると、何かを勘違いしたルカは「馬を止めるか」と言い出した。それに有希の顔はかぁっと赤くなる。
「ち、ちちちがう! 違うから!」
全力で否定すると、じゃぁ何だと呆れ気味の声で言われた。
「えと、えぇと、何か、おはなしして!」
言ってから、激しく後悔した。
(おはなしって……寝る前にリタが言ってたのと同じ台詞じゃない……)
なんとも子供じみたことを言ってしまったと恥ずかしさに俯くと、くつくつと笑う振動が背中から伝わる。
「わ、笑わないでよ! 暇だったの!」
取り繕うように怒るが、それが更に子供じみている事に気付く頃にはもう遅く、ルカの笑いが収まることがなかった。
「~~~~っ」
恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなくて、肘でルカのわき腹を小突くと、ルカが「悪い」と小さく呟いた。言葉とは裏腹に、まだ笑っている。
「――――おはなし、か」
揶揄するような口調に羞恥がこみ上げる。けれどもルカは、どこか優しげな、穏やかな声音を出す。
「そういえばお前は、英雄アリドルの話を知っているか?」
「ちょっとは。アリドルっていう人と、アドルンド、リビドム、マルキーっていう人がこの世界を救った。だよね?」
「そうだ。ある日突然、龍と魔物がこの大陸を襲った。――そこから話が始まる」
「龍と、魔物……」
「そうだ。龍が魔物を操り人里を襲わせ、一時の内にこの世界全土を壊滅状態にした。――それに呼応するように火山活動も行われ、灰色の雪が降り、人々は次々に死に絶えた」
「…………」
「そうして世界から人々が消え去った。その最後の生き残りが、アリドルだと言われている」
「英雄、アリドル?」
「そうだ。そのアリドルの元に、三人の女が突如現れる。リビドムは空から、マルキーは炎の中から、アドルンドは水の中からやって来たという。アリドルは女達から力を得て、魔物を退け龍を退治したという話だ」
「…………それで?」
「平和を取り戻した後、アリドルは三人の女に自分の子を宿し、それぞれの土地で治世をさせたという話だ」
「…………それから?」
「それで終わりだ」
「それだけ?」
「あぁ」
「…………」
有希は押し黙る。
日本にもこういうおとぎ話はあるが、なんだか違う気がしてならない。
「……文化の違いなのかなぁ」
「何がだ?」
「いや、あたしの国とはテイストが随分違うから」
「ていすと?」
「なんていうか……ドラマチックじゃないというか、淡々としているっていうか……アリドルさんって、女たらしだったんだね……」
「女たらし?」
「だって、ホラ、三人の女の人との間に子供作っちゃうんでしょ? 女たらしじゃん」
「……それが何かおかしいのか?」
「え!?」
驚いてルカを見上げると、仏頂面が有希を見下ろしている。
「多くの子孫を残すのは良い事だろう。何か問題でもあるのか?」
「い、いや、ありません……ありません」
(でも何か、おかしいよね……)
「あたし、アリドルさんに対しての印象が変わりそう……」
「そうか」
「いや、だって、おとぎ話とか伝記に伝わる人って大抵一人の人を愛す、とかそういうものじゃないのかなぁ。……あたしの国だけかもしれないけど。あぁでも、源氏物語も違うし……うーん……」
「愛憎話が聞きたいのか? 一応、アリドルが子を成すまでの話もあるが、悋気だらけで聞いてて気持ちの良いものじゃないぞ?」
「い、いい! 聞かない!」
(愛憎話って……)
詳しく聞いた事が無いが、王族や貴族は一夫多妻制らしい。いつかラッドに聞いたが、アドルンドにはオルガを産んだ王妃、それから側室が四、五人居ると。アインからも、兄姉は複数居るが、皆母親が違うとちらりと聞いた記憶がある。
けれども、リビドムやアドルンドを回っている間に出会った家族は皆一夫一婦だった。多く妻を持てる事が位が高い事を象徴するのだろうか。
(それなら納得できるけど……)
「ルカはどう思う?」
「何がだ?」
「沢山の奥さんを持つこと、に対して?」
なぜだか胸がどきどきと高鳴って苦しかった。なぜだろうときゅっと胸元を握り締めるが、ちっとも高鳴りは収まらない。
ルカはなかなか返答を返さない。ちらりと盗み見るようにルカを振り仰いだが、相変わらずの仏頂面は何を考えているのかわからなかった。否、もしかしたらあれが考え事をしている顔なのかもしれない。
「…………契約の起源話を知っているか?」
「え?」
突如話が飛んで、素っ頓狂な声が出た。
「し、知らない」
そうか、と言うと、ルカはまた話を始めた。
「昔、とある男が魔女と恋に落ちた」
「魔女、と?」
「そうだ。――出会った当初、魔女は自分が魔女であることを隠していたが、ある日自分が魔女であると男にばれてしまう。けれども、男は魔女を好いていたので、魔女に去らぬように言ったのだ」
「……へぇ」
素敵な話だ、と心が温かくなる。が、ルカの次の言葉でその暖かさが瓦解する。
「魔女は自分への愛が不変のものであるよう、男に一生の愛を誓わせる為に契約を交わしたという。もし他の女に移り気でも起こしたらその指輪から呪いが巡り、男を殺すように」
「な、ころ……」
「その代わり、魔女を守れるように、想いの力次第で魔女よりも屈強な身体を持てるようになったという話だ。……真偽は定かではないが、そこから始まった契約の仕組みが、騎士制度に流用されたらしい」
やはりこの世界のおとぎ話はどこか変わっている。
(それとも、魔女が危険なものだと伝えるためのお話なのかな……)
だとしても、物騒な話だ。
「……騎士になる奴は、自分の伴侶と契約することが多い。これは知っているか?」
「う、うん」
「そうか」
「そういうことだ」
「えっ?」
一体どこをどう巡って『そういうことだ』に辿りつくのだろうか。
やはりルカが何を考えているのか、理解ができない。
しばらく押し黙っていると、ルカがぼそっと言った。
「多数の人間を選べる中で、一人だけを選びたい。――そういう奴が騎士になりたがる。そういうことだ」
「!?」
ぼっと顔が火照る音が聞こえた気がする。
「どうした」
怪訝そうにルカが覗き込む。
「うわああああ!」
言って、有希は思わずルカの顎を手の平で押し上げた。
(ルカって、ルカって!!)
心臓がばくばくと跳ね上がる。暴れるなとルカに叱られるが、それどころではない。
「どうしてそう、恥ずかしいことを恥ずかしげもなく言うのよ!」
「だから離れるなと言っているだろう。寒い」
今度は貫頭衣の上から、肩を掴まれて抱き寄せられた。