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宿舎に戻ると、ナゼットの部屋の前で蹲っているティータの姿を見つけた。
「ティータ?」
のっそりと近寄り、ひっそりと声をかけてやる。
「お兄ちゃん……」
目を真っ赤にしたティータの顔がくしゃりと崩れ、ティータはナゼットの胸に飛び込んでくる。
声を殺してひぃひぃ泣くティータに困惑したナゼットは、とりあえずティータを抱え起こして片手で抱き上げ、部屋の中へと入れた。
「おう、どうした?」
ソファに座ったはいいが、ティータはナゼットの膝の上から離れず、ナゼットに抱きついたままだ。
ナゼットはティータの背中に回した手でとんとんと宥めるように叩く。ティータはそれに促されるように、時折ぐずりと洟を啜った。
「兄ちゃんとしては役得だがなぁ……なぁティータ、何があったか言う気はないか? 言うだけで楽になるぞぉ?」
そう言ったけれども、大体の理由は心当たりがあった。あった、というよりも、ティータを泣かせる程、ティータに影響を与えられる人間なんて限られている。
「別に昔みたいに殴りこみになんて行かねぇから安心しろって。アインとまた喧嘩したのか?」
ぎくりと震える肩に苦笑いを浮かべ、とんとんと背中を叩く。
「違うわ……喧嘩、なんか、してない」
「おぉ、そっかそっか。――んじゃぁ、どうしたんだ? ん?」
宥めるように、甘やかすように聞くと、ティータはしばらくぐずぐずと黙り、拗ねるように言った。
「……ルカ君は昔からだったけど、みんな、何も教えてくれないのよ。苦しそうなのに、辛そうなのに、どうしたのって聞いてもなんでもないって答えるのよ。――私が何も出来ない子供だっていうことはわかっているわ。でも、話を聞くくらいできるのに、心配くらいできるのに。――どうしてさせてくれないのよ」
そう言うと、ナゼットの胸元に押し付けていた顔を上げて、ティータは逼迫した顔で言う。
「ねぇお兄ちゃん、何かあったんでしょう!?」
白い肌を真っ赤に染めて、涙目で上目遣いをされてぐらりと頭が煮えそうになったが、ナゼットは自分を叱咤して、誤魔化すように頭を掻いた。
「ん、あぁ……まぁな」
「またそうやって誤魔化して! そうやって誤魔化すようになるのが大人になるって事なの!? なら私、大人になんてなりたくないわ!」
あぁ、怒った顔も相変わらずかわいいなぁ。
そうやって怒れる事は貴重だと伝えてもきっと、可愛い可愛い妹は「また誤魔化して」と怒るのだろう。
むっとした顔を浮かべたまま、涙をぽろぽろとこぼすティータの涙を拭い、ナゼットはどうしたものかと苦笑する。
「今日の会議の内容でな……まぁ、俺もアインも歯がゆいものを感じているっていう事だ」
「なら、どうして言ってくれないの?」
「まぁ、アイツにも色々あるんだろう。最後まで食いついていたのはアインだったからなぁ」
「だからって……あんな言い方は酷いわ……」
これは後で何を言ったのか、アインに問い詰めなければならないなぁと内心でひとりごち、再び首に絡み付いてくるティータの腕に、されるがままに抱き寄せられる。
(そうやって、俺にだけ甘えてくれ)
例えその心に棲む人間が自分ではなかったとしても、それくらいは願っても罰は下されないだろう。
「アインも機嫌が悪かったんだろう。許してやれって」
口から出る言葉と裏腹の気持ちに、また苦笑いを浮かべる。
「……それから、嬢ちゃんにはもう会えたか?」
「ユーキ? まだ、会ってないわ」
「そっか。なら、早く会っておいた方がいい。……明日、マルキーへ発つ事が決まった」
ティータが息をのむ。顔は見えないが、その顔が相好を崩していくのがわかる。
「……いやよ、いやよいやよ!! またユーキが危険な目に遭うの!? またユーキがっあんなに小さな子がっ」
ぶんぶんと首を振ると、ふわふわとした栗毛がナゼットの顔を、首を、くすぐるように、撫でるように触ってゆく。
『そうやって誤魔化すようになるのが大人になるって事なの!? なら私、大人になんてなりたくないわ!』
今先ほど、愛くるしい妹が発した言葉が脳裏をぐるぐると巡る。
(大人にならないでくれ)
ティータの背中に手を回し、またぐずぐずと泣き始めたティータを宥めるように、背中をとんとんと叩く。
大人になってしまったら、ティータをこうやって慰めるのは、自分ではなくなってしまう。ティータの泣き顔を見るのも、慰めるのも、ナゼットにはできなくなってしまう――絶対、自分ではない男だ。
もう一方の手もティータの腰にまわす。壊れないように壊れないようにと細心の注意をしながら、ぎゅっと抱きしめる。
(大人になんか、なるな)
こんな風に、ずるくなる。
こんな風に、嘘が上手くなる。
こんな風に、情けなくなる。
こんな風に、動けなくなる。
(いつまでも、俺の腕の中に居てくれ……ティータ)
十五年前に見つけてしまった、小さな小さな女の子。
それは――ナゼットの狂おしいほど恋しい、大きな大きな存在の神様だった。
馬車が一つ、リフェノーティスに背を向けて走っていくのを見送った。
「……でも本当にいいのかよ。ユーキに言わなくて」
リフェノーティスに並んで見送ってくれたのは、セレナの弟子であり、リフェノーティスの家族である、エストだった。
「いいの。今のあの子にこれ以上余計な情報を与えたくないの。……しかもこの事については、彼の騎士も了承してくれたわ……」
「あぁ、あのちょっとスカした奴な」
「スカしたって……彼、一応アドルンドの王族よ?」
「いや、王族だろうがなんだろうがスカしてんだからスカしてんだよ。――リフェ、ああいう奴嫌いだろ」
「一体なにがどうやったらそういう思考に飛ぶの?」
「同属嫌悪ってヤツ。アイツ、リフェにちょっと似てっトコあるよな」
「――――そうかしら」
言って、寒そうに首をすくめるエストに、自分の襟巻きを解いて首に巻く。エストはくすぐったそうに首をすくめて、それからまっすぐリフェノーティスを見上げた。
「そう。自分の認めた人間以外は絶対信頼しませんっていう目をした、スカした奴。リフェはトシの功かわかんねぇけど、あんまり顔に出さないけど、アイツ超わかり易くね?」
少しどきりとしたが、そ知らぬふりであら心外と言う。
「トシトシ言わないでくれる? 結構気にしてるんだから」
「っは!! うっそくせぇ!! ――――見えなくなっちまったな。寒いし、行こうぜ。俺も夕飯の仕込みしなきゃなんねぇし」
言うと、エストはくるりと振り返って、王宮に向かって歩いていってしまう。
『自分の認めた人間以外は絶対信頼しませんっていう目をした、スカした奴』
エストの言葉を反芻し、リフェノーティスは苦笑いを浮かべた。
「確かに、そっくりだとは思ったけど、まさかそれを人に言われるとは思わなかったわ」
エストの少し後ろを歩きながら、昨晩の出来事を思い返していた。
――有希に茶を飲ませた直後に、有希の指輪は淡く光り始めた。有希の騎士が有希を探しているのだとすぐにわかった。
リフェノーティスは苦笑いを浮かべて、有希をソファに寝かせて、隣の部屋から持ってきた毛布を掛けた。
と、同時に、リフェノーティスの部屋の扉が開く。その外側に居たのは、白刃を抜いたルカだった。ルカは暖炉の前に転がるカップを一瞥すると、リフェノーティスを睨みつけた。
「ユーキから離れろ」
「少し遅いわね、不合格」
ふふっと笑って言うと、険しい顔をしたルカが一歩、リフェノーティスに近づいた。
「だめよ、そんなこと言っちゃ。――私が今すぐ、ユーキの首を絞めて殺しちゃったらどうするの」
「アンタはそれはやらない」
「あら、どうして?」
「紫の瞳に囚われているからだ。アンタにはユーキを殺せない」
リフェノーティスはそんなことを言われると思っていなかったので、驚いて目を見開いたまま、ルカを見るしかできなかった。
「ユーキに何をした」
「……何もしていないわ。ちょっと、見られたくないものを見られちゃったから、記憶を混濁させてもらったの」
「見られたくないもの、とは?」
詰問口調のルカに、リフェノーティスは小さくため息を吐き出した。
「とりあえず、お寒いでしょうからその物騒なものを仕舞ってユーキの隣にでも掛けたらどう? お茶を淹れるわ」
「俺に毒物は効かないぞ」
「ええ、十分に承知しているわ――アドルンドの、不死身の王子様?」
そう嫌味を言ってから、茶を淹れて事の顛末をルカに話し、有希を渡したのだった。
「貴方が協力してくれるだなんて思わなかったわ、有難う」
「――協力するんじゃない。コイツに負担だと思ったから、俺も話さない。それだけだ。コイツが知りたがったら言うかもしれん」
「その判断は貴方に任せるわ。――でも本当に、有難う。貴方は誰も信頼しないと思っていたから、私の話を聞いてくれて正直驚いたわ」
「……それは、アンタも一緒だろう。アンタも信頼している人間以外には心を開かない。――そんなアンタがコイツを想って言った事だ。心に留めて何が悪い」
思い出して、リフェノーティスは少し眉をひそめた。
「……いやだ、ちょっとあの王子様、思ったより性格が悪いっていうか、性悪よね……」
「リフェ!! ちょっと手伝え!! 今日城下から届いた荷物運びたいんだよ!! どうせ暇だろ!?」
いつの間にか遠くまで歩いていたエストが、ぶんぶんと両手を振ってリフェノーティスを呼んでいた。
「暇なんかないわよ!! 一番エストがわかってるでしょう!!」
「ははははっ! いーじゃんか、たまにはカラダ動かさねぇとなまんぞっ!」
「もう……」
この後、まだやることが沢山あるのに。
それでもきっと、リフェノーティスはエストの手伝いをするのだろう。エストの不器用な気遣いが嬉しくて、この後の予定なんてどうでもいいと思ってしまったのだ。