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目の前で起きている事が、よくわからなかった。
庭園から部屋に戻る途中、廊下を曲がると燭台を持って立っている人が居た。男の人だった。誰だろうと目を凝らした瞬間に、男のすぐ横の扉が開き、中から女が出てきた。
扉から出てきた人間は間違いなくセレナだった。蝋燭を持って扉の前に居た人物は誰だったのだろう。
セレナは彼をリディーと呼んだ。けれどもリディーはもう既に亡くなっていると聞いた。
ならセレナは一体誰をかつての夫の名で呼んだのだろう。
何が起きたのかと呆然としていると、暗闇から有希の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「ユーキ」
「!?」
びくりと肩を揺らした有希は声が聞こえた辺りを見る。なにか影があるのは見えたが、一体誰かわからなかった。
影はもぞもぞと動くと、服の中から小さな光を取り出した。――その光は水晶だったようで、ほの明るく人物を照らしだした。
「リフェ!」
リフェノーティスは口元に指を遣り、静かにするようにと告げる。そういえば夜半だったと思い返した有希は、これ以上喋らないようにと口に手を当てる。
不均等な足音が、絨毯越しにかすかに聞こえる。
「……いものを見られちゃったわね」
そうかすかに言った声は夜闇に溶け、有希の耳には入らなかった。
「?」
「なんでもないわ。ユーキ、外に居たの?」
こくこくと頷くと、水晶に照らされたリフェノーティスの顔が苦笑に歪む。
「駄目じゃない。風邪引いちゃうわよ」
すぐ傍に来たリフェノーティスが、水晶を持っている手ではない方の手で有希の頬を触る。
「こんなに身体を冷やして。――私の部屋にいらっしゃい。温かなお茶を出すわ」
有希は手に持っていた水晶をすいと取られる。王宮の中に入ったはいいが、廊下も寒くて凍えそうだったので、リフェノーティスの言葉に甘えることにした。
リフェノーティスの部屋のある離宮は、それからしばらく歩いた。歩きながらリフェノーティスはどうしてあんな所に居たのか、先ほど部屋から出てきたセレナ――セレナは怪我をしていたはずなのに、もう動いて大丈夫だったのだろうかと考えていた。それから――リディーと呼ばれた男。
あの男は一体誰なんだろう。セレナの頬にキスをして、やさしく慈しむように微笑んでいた人。どこかで見たことがあるような気がするが、今ひとつのところで思い出すことができない。
そうこう悩んでいる間に、リフェノーティスの部屋に着いた。リフェノーティスの部屋は暖炉に火が灯っていて暖かかった。有希はソファではなく暖炉の前にちょこんと座り、炎のゆらめきを見ながらそのぬくもりの恩恵を預かる。リフェノーティスは茶を淹れてくるわねと小声で告げると隣の部屋に行ってしまった。別の部屋でエストが寝ていることを知っていたので、有希は声を出さずにリフェノーティスに向かって大きく頷いた。
ゆらゆらと揺れる炎に、自分の体温が徐々に上がっていくのを感じる。揺らめいている炎は見ていてとても綺麗だと思った。
どのくらいぼんやりと見つめていただろう。ぼうっとしている間にリフェノーティスはカップを一つ持って隣の部屋から戻ってきた。暖炉の前に座り込んでいる有希に笑みかけ、リフェノーティスも有希の隣までやってきて、有希と同じように座った。
「私もね、暖炉の炎が好きで昔よくこうやって暖炉の前に座り込んだわ。そうして何時間も何時間も炎を見つめて。薪が燃え尽きそうになったら放り投げて、またその薪が燃えていくのをじっと見つめて……母さまに『暖炉番ね』って笑われたわ。お陰で今でも火加減の調節はお手の物なのよ」
綺麗な顔でくすくすと笑い、リフェノーティスはカップを有希に差し出した。
「じゃぁ、あたし、リフェの弟子になろうかな」
有希もくすくすと笑って、カップを受け取った。カップの中の液体は濃い色をしていて、不思議な匂いがする。紅茶や花茶ではなく――どちらかというと日本茶の匂いに似ていたが、どこかつんと薄荷のような匂いもする。一口啜ろうとしたが、熱くて飲めなかった。仕方なくカップを両手で包み込み、またぼんやりと暖炉の炎を見つめる。
「――眠れないの?」
「うん。昼にね、いろいろ考え込みすぎたのかな。頭痛くなっちゃってさ、寝て起きたらこんな時間で、ぶらぶら散歩してたの」
「そう。……ごめんなさいね、大変な荷物を背負わせちゃって」
「ううん。きっと、あたしにしか出来ないことだろうから」
言って、ふとリフェノーティスの小屋での事を思い出した。そういえば、リフェノーティスは人探しをしていたのではなかっただろうか。それが原因でエストと喧嘩していた事を思い出した。
「リフェはもう、ずっとこの王宮に居るつもりなの?」
「えぇ。リビドム城に居た人はもう、あんまりいないから、あの小屋に逃げようと足掻いても、きっとまた連れ戻されちゃうわ」
「そうなんだ……探し人には、もう会えた?」
暖炉の火を見ながら問いかけると、リフェノーティスの視線を感じた。なんだろうと見ると、リフェノーティスが驚いたような顔で有希を見つめていた。そうしてしばらくして、その顔は穏やかに緩む。
「そうよね、ユーキは知ってるのよね……」
黙りこんだリフェノーティスは、ためらいがちに水晶を取り出して、カップを持った有希の前に差し出した。水晶の中はいろいろな色がぐるぐると蠢いていたが、やがて人の形に近づいていく。
「私が探していたのは、この人なの」
その人物に、有希は息を飲み込んだ。
「…………パパ」
そこに映った人物。肩にかかりそうなほどの髪を後ろで束ね、紫の瞳をたたえて微笑んでいたのは有希の父親、快斗だった。有希の記憶の中よりも若くて髪も長いが、間違いなく有希の父親の姿だった。
「やっぱり、ユーキの父さまなのね。カーン様は」
有希はリフェノーティスを見て、それからまた水晶の人物に視線を注ぐ。
「これが、カーンさま…………」
「私が探していたのは、この方なの。――ユーキの父様は、遠いとこにいるんでしょう? 私では手の届かない所に」
有希が言葉を見つけられずにぎこちなく頷くと、リフェノーティスはふわりと微笑む。
「だからもういいのよ」
「そっ……か」
どことなく気まずい空気を誤魔化すように、カップに口を付ける。まだ少し熱かったが、冷えた身体にはじんわりと効く。
「明日、もう今日なのかな。……言うからね」
言って、またごくごくと茶を喉に通す。また胃に暖かさが広がる。その暖かさに背中を押され、また言葉が出る。
「ごめんね、ありがとう。何も聞かないでいてくれて。――――ちゃんと、決めたから」
「…………そう。ありがとう」
「うん」
また、言葉が途切れてしまった。
「あ、そういえば。さっきのひ……と」
先ほど、セレナと会っていた男。あれは一体誰なのだ。そう聞こうと思ったのに、突然睡魔に襲われて、有希の意思とは関係なく瞼が落ちる。意識にも暗闇が広がる。
「な、に?」
驚いて声をあげる。身体も自分を支えられなくて倒れこみそうになる。それを力強い腕が肩を掴んで支える。力の入らなくなった手からカップが滑り落ちた。耳に、カップの落ちる音とリフェノーティスのやわらかな声が入る。
「だいじょうぶよ……きっと疲れているんだわ。ゆっくり眠るといいわ」
(疲れてる……そうなのかな、そうかも)
闇に侵食された頭はうまく動かずに、リフェノーティスの言葉を素直に受け取った。そうして有希は落ちるように意識を失った。
「……ごめんなさいね。でもあなたに害があるようなことは一切しないから。……あなたは何も知らないでいいのよ。あなたまで苦しむ必要はないの」
その声は震えていたが、深い眠りに落ちた有希はそれに気付かなかった。
そしてしばらくして、有希の指輪が淡く光り始めた。