129
ジジッと音を立てて手元の蝋燭の炎が揺れた。蝋燭はもうじき消えてしまいそうな程短くなっていて、最後の足掻きのように炎はぐらぐらと揺れながらも燃える。リフェノーティスは自分が長いこと机に向かっていた事に気付いた。
どうやら身体も長時間動いていなかった為に軋んでいるのにも気付かなかったようで、首から背中、腰にかけて唐突に重みがやってきた。
ふぅと一つ深い呼吸をし、両手を空に伸ばす。伸びるついでに腰の骨がぽきんと鳴る。少しは重さは取れたが、筋肉は数十秒伸ばしただけでは物足りないようで、まだどんよりと重い。
前王の時代の軍人、官吏達はもう殆ど居ない。なので前王時代の人間――しかも王の魔術士として仕えていたリフェノーティスは、かつて自分の仕事ですらなかったようなことまで押し付けられる羽目になっている。
わからないことは文献を調べ、そうやって少しずつ書類を作成していく。――まるで学生時代に戻ったようだと苦笑いが出る。
「けどまぁ、ヴィーゴも戻ってきたことだし、私の仕事も少しは減るわよね」
ぼやくように言って、椅子から立ち上がる。その時に風が吹いたからなのか、もう蝋が尽きたからか、机の上の炎が消える。これはきっと休憩でも行って来いという知らせだろうと良いように取り、リフェノーティスは襟巻きを取って首に巻くと、手持ちの燭台に蝋燭を一本取り出し、火を灯して外へ出た。
リビドムの冬は寒い。雪量で言えばマルキーの次だが、それでも雪が多い。リビドムの冬は、寒くて長い。
物資も何も無い所に来てしまったから、かつて明かりの絶えなかった廊下も、リフェノーティスの手持ちの明かり以外は何も無い。
かつてのように、両足同じような足音で歩くことも無い。
この城に戻ってきてから、あれやこれやと昔を懐かしむ事が多くて、そのことに気付く度に苦笑がもれる。
(トシかしら)
嫌だわ、とひとりごちて、あちらこちら練り歩く。散歩は昔からの癖で、考え事や悩み事があると外へ出てあても無くうろうろ歩き回るのだ。
――カーンとの出会いも、そこが始まりだった。
魔女に育てられた子供として有名だったリフェノーティスは、その口調からか、美貌からか、魔術士としての才能からか、顰蹙を買うことが多く、寄宿舎に居る時間は極力短くしたかったのだ。
直接的に迫害を受けたことは無かったが、やはり雰囲気がなじめなかった。
母と二人きりの世界しか知らなかったリフェノーティスは、あの頃は理由を知らなかった。何故自分がなじめなかったのか。
その日も、うろうろと歩き回っていたのだ。特にあても無く、城の庭を。
「…………やだ。また昔の感慨に浸っちゃったわ」
自嘲して、ため息を吐き出すと、視界の奥。暗闇の中に人が居るのが見えた。
「――――私以外に、夜中にうろうろするような人、私の記憶には無いのだけれど、あなたは誰かしら」
嫌味のように言うと、人影は少し動いた。逃げるのかと思って身構えたが、どうやらそうではなかった。
「……リフェノーティスか」
その声はヴィーゴのものだった。
「どうしたの、こんな時間に」
ヴィーゴの様子はどこかおかしくて、いつも以上に声に覇気が無い。
そしてそれは、ヴィーゴの姿がリフェノーティスの持つ蝋燭の火に照らされて、原因を知った。
「…………何を、しているの」
ヴィーゴが髭を剃り落としていた。少し童顔のヴィーゴは、それを気にしてか、それとも年子のリディーと顔がそっくりだったのを嫌がってか。リフェノーティスが覚えている限り、ここ二十年は髭面しか拝んだことがなかったのだ。
「あいつが、起きた」
そう呟く声には生気が無い。
「……そうなの」
「あいつの中ではリディーは死んでいないことになっているらしい」
ヴィーゴの疲弊しきった声に、リフェノーティスは目を剥いた。
「それ以外の記憶は大方大丈夫だ。カーン様が居ないことも、カイト様が死んだ事も知っている。カイト様を殺したのがリディーだという事もだ」
「――なら、どうして」
「罰を恐れたリディーを、俺とセレナとリフェノーティスが逃がしたそうだ。リディーを死んだということにして、リディーの指輪を俺に預けて」
リフェノーティスは絶句するしかなかった。
リディーとセレナは本当に仲睦まじかった。いつもリディーはセレナに気圧されているように見えて、実は芯の強いリディーの為に出来ることを一生懸命にセレナは探し、実行しようとしていた事をリフェノーティスは知っている。だからこそ、彼女が狂犬だと言われていることも。
それだけセレナはリディーを深く愛していたのだ。――それこそ、今でも彼を生きていると願って自分自身を偽ってしまうほどに。
「……だからあなたは、セレナの為にリディーを装うの?」
「あいつはリディーを呼んでるんだよ。ずっと……」
「馬鹿じゃないの? そんな事をしたって」
「わかってる! …………そんなこと、わかっている」
自暴自棄に首を振るヴィーゴをねめつける。
「違うわよ、私はあなたの行為に言ってるんじゃないの」
だって、ヴィーゴ。そんなことをしても貴方が報われないじゃない。
その言葉が出てこない。言ってしまったら、ヴィーゴまでも失ってしまいそうで、怖かった。
「……一時しのぎのまやかしだって事くらい、俺だってわかっているさ。だけどな、アイツが求めている、俺は応えてやることができる。――それなら、やってやりたいって思っちまうんだよ」
苦い皮肉を自分自身に言い聞かせるような口調に、リフェノーティスはため息を吐き出す。
「馬鹿ね……本当に、大馬鹿だわ」
リディーを喪ったセレナを真綿でくるむように慈しみ、周りのすべての事柄から守り抜いたヴィーゴが、セレナを深く深く愛しているという事も、リフェノーティスはわかっていた。
そしてセレナもヴィーゴの気持ちに気付いていて、まんざらでもないと思っていたことも知っていた。
それなのに、一体どこでどう間違えてしまったのだろうか。
「…………私達の棲んでいた小屋に行くと良いわ。荷物はあらかた持って来るか、あの孤児院に寄贈しちゃったから何もないけど、それでも良ければ使って。――――老人やガリアンさまには適当に言っておくわ」
ヴィーゴの目が驚きに見開かれる。そして苦いものを噛み潰したような顔で、目を伏せた。
「…………すまない」
「本当よ。やっと私の仕事が減ると思ったのに」
「すまん」
「馬鹿」
「……」
「大馬鹿」
「……」
「――――コレ。餞別」
そう言って燭台を手渡す。ヴィーゴは力なく苦笑して、受け取った。
「相変わらず、水晶の明かりは嫌いなんだな」
「そうよ。……リディーと一緒でね」
ヴィーゴの瞳が一瞬、切なく歪む。
「……そうだったな」
「早く行ってあげなさいよ。セレナが待っているんでしょう?」
「…………あぁ」
「セレナ、腕はもういいの?」
「……あぁ、もう、完治している」
「――そう。悪いことしたわねって伝えておいてくれる?」
「あぁ」
そう言うと、ヴィーゴは燭台を持って歩き始めた。その背中を見送る。
リフェノーティスはあの小屋には一生戻らないつもりでこの城にやってきた。
だからもうヴィーゴには――もう二度と会えないかもしれない。一緒に苦楽を共にしてきた、唯一の朋友なのに。
「…………本当に、大馬鹿者ね」
セレナの骨は、肘ごと捻り曲げてしまったから、相当の怪我だった。いくら契約騎士でも治るのには時間が掛かると思っていたのに。
――馬鹿な程に、愛がまっすぐで、歪んでいる。
リフェノーティスはゆっくりとヴィーゴの後を追った。
あの背中がもう二度と見れないのかと思うと感傷が湧き上り、きゅうっとリフェノーティスの胸を締め付ける。
ヴィーゴはセレナとリディーが二人で暮らしていた部屋の前に足を止めると、それを察知していたかのように扉が開き、中からセレナが飛び出す。セレナの重さに数歩後ろにたたらを踏んだヴィーゴは、驚いたように目を見開く。
「リディー! おかえりなさい!」
リフェノーティスはその姿に絶句してしまう。
セレナは、昔――十代の頃のように目を爛々と輝かせ、少女のような瞳でうっとりとヴィーゴを見つめている。
「……ただいま、セレナ」
そう笑むヴィーゴもまた、かつてのリディーの姿にしか見えない。
まるでままごとのように、悲しいこと苦しいことから隔絶されていた、幸せだった甘い甘い砂糖菓子のような空間。
「馬鹿…………」
セレナがヴィーゴの頬にキスをする。ヴィーゴは照れくさそうに笑って、セレナの頬にキスを返す。
ヴィーゴに引きずられるようにしてやっと、セレナは部屋の中に入り、扉は閉められた。
閉められた扉の奥に、ぼうっと光るものを見つけ、リフェノーティスは瞠目した。
「……ユーキ」
水色の水晶、水色の光に包まれた有希が、呆然と閉じた扉を見つめていた。