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紫の瞳  作者: yohna
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 夜が更けていく時の、あの言いようのない不安感。

 空の半分が橙色で、半分が藍色。その合間の深い紫色。

――この世界が傾いていく不安を、そのまま切り取って形にしたような姿。

 魔物に対しての印象はそれだった。

 人のちょうど倍くらいの高さ――四メートル弱の狼は、圧倒的な存在感で皆を圧巻していた。

 狼の周りを取り囲むように人垣が成され、その人垣の後方で、セレナの馬は停止した。

「ヴィーゴ!」

 負傷して後方に退いた兵の手当てをしていたヴィーゴは顔を上げ、そして有希の存在に気付くと思いっきりセレナを睨み付けた。

「お前……」

「いいの、あたしが来たいって言って無理にお願いしたの!」

 そう言ってセレナの馬から降りる。

「セレナ、魔物と戦いたいんでしょう? ――気をつけて」

 見上げて言うと、セレナは嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう、ユーキちゃん。大好きよ!」

 そう言うとセレナは馬を人垣の近くまで馬で走ると、そこから降りて人垣の中に埋もれていった。

「……どういうつもりなんだ」

 手当ての手を休めず、ヴィーゴは言及した。

「ごめんなさい。でも、あたしだけ守られてるなんて嫌だったの」

 手当てをされている兵の顔が痛みに歪んでいる。腕に添え木が当てられているので、骨折しているのだろう。

 痛々しい。

 兵士の前に屈み込み、添え木と共に包帯で巻かれた腕におずおずと手を伸ばす。

(早く……治りますように)

 そう祈って目を開いても、自分の身体に何も変化は起こらないし、兵士が浮かべる苦悶の表情も、ちっとも緩和されない。

「……嬢ちゃん」

「あたし、もう何もできないけど、それでも来たかったの」

 ヴィーゴは驚いたように有希を見て、そして、ため息を吐いた。

「そういう問題じゃないんだが――もっと自分の置かれている立場っていうものをな……」

「ごめんなさい。絶対近くには行かないから」

「当たり前だ」

 また呻き声が近くに聞こえる。別の負傷者がヴィーゴの所に連れてこられたのだ。

「絶対、近くには行かないから……」

 そう言って立ち上がる。

 狼は道を阻むように暴れている。それを囲むように、前後に人がわらわらと群がっている。

 有希は人垣の周りにある木――登りやすそうな木を物色する。

 その中からひとつ、比較的近くにあった木を選び、有希はよじ登り始める。

「ユーキ!!」

 ヴィーゴの怒声が聞こえる。

「大丈夫! 絶対近くには行かないから!」

「おい! 誰か彼女を木から引きずり降ろせ!」

「嫌! あたしのことは気にしないで! あれを倒すのに専念して!」

 ヴィーゴの声に振り返った兵士は、有希の言葉に戸惑い、結局狼に向き直った。

 あちらこちらから人の声が聞こえる。叫ぶ声、怒る声、悲鳴、激を飛ばす声。

 木をよじ登り、狼の頭と同じくらいの高さに並ぶ。いそいそと弓と矢を取り出し、距離を測る。

(ここからだと五十……ううん、五十もないかも)

 狼はなぎ払うように、手前の兵士を前脚で吹き飛ばす。

 聞こえる悲鳴。その痛ましい声に眉根を寄せる。

「……セレナ」

 薄紫色の髪が揺れている。セレナは払われた前脚の間をすり抜けて思い切り跳び、狼の腹部に剣を突き刺して狼の後方に回る。

 咆哮が響く。その腹部にはセレナの剣が刺さったままだ。

 痛さに我を失った狼は更に暴れる。あちこち構わずに前脚を振り上げ、巨大な尻尾でなぎ払う。

「離れろ!!」

 そう叫ぶ声が耳に届く。それと同時に人垣の輪がざざっと広がる。

「――――ルカ」

 人垣が広がったために、最前に来ていた。その隣には、大きな槍を持ったナゼットが立っている。

 狼ががむしゃらに前脚を振る。それがルカに向かう。

――背筋を撫でられたように、全身がぶるっと震えた。

 恐い。

 幸い、ルカはそれをうまくかわしたのだが、有希の心臓は不安で高鳴る。

 こわかった。皆が傷ついていくのが。これからまた人が傷つくのかと思うと恐くて怖くてたまらなかった。

「――させない」

 右手に力がこもる。

 自身を落ち着かせるように目を閉じ、ゆっくりと息を吸って、これ以上ないというくらいにゆっくり吐き出す。

 自分の足は、この木に根付いて離れない。この腕は、この指は、確実にあの魔物に射るために動く。だから、誰ももう傷つけない。

「大丈夫、あたしは絶対……」

 そう言って、ゆっくりと構える。もう一度目を閉じて、弓がどんどんしなってゆくのを感じる。

「――できる」

 目を開き、狼の頭部を見据える。狼は痛みに悶絶しているのだろう、激しさを増している。

 動き続ける狼に、それでも照準を合わせる。

「……こっちを見て」

 遠くに居るのに、目が血走っているのがわかる。聴覚も鋭敏になっているはずなのに、何も聞こえない。

「見て」

 もう一度つぶやく。

 その声が届いたのか届いていないのか。狼が有希を捕らえた。同時に、狼が顔を上げた事を不審がったルカが有希を見つけた。同時に、有希は全感覚を研ぎ澄まして矢を放った。

 ルカが声を上げたのと同時に、狼がもう一度咆哮を上げた。有希の放った矢が、狼の左目に突き刺さっていた。

「よくやった!」

 ナゼットが吼え、槍で払う。それは狼の前脚の関節に直撃し、狼が前傾に崩れる。ルカは有希から視線をとっくに狼に戻していて、崩れてきた狼の顎に、剣を突き上げた。それと同時にセレナが狼の頭の横から、剣を首に突き刺す。

 一瞬、時が止まったかのようにしんと静まる。

 その直後、右目をかっと見開いた狼は、そのままぐらりと傾いて倒れた。口から赤い泡を吹き出して、数度足を泳がせてしばらく、完全に動きが停止した。

 一拍置いて、皆がわぁっと声を上げた。

 有希も木の枝にへたり込み、幹に身体を預けてほぅっと息を吐いた。

 皆の安心した声が、歓喜する声が、耳に心地良い。

「……よかったぁ」

 もう一度はぁ、と息を吐いて目を閉じる。

 先ほどの一瞬の出来事が、有希の気力や体力をごっそりと奪っていた。

 よほど緊張していたのだろう。こめかみをつうっと汗が流れた。それを冷たい空気が冷やしてくれる。

(もう、誰も傷つかない)

「えへへ」

 嬉しくて笑む。ほっとしてしまったら力が抜けてしまって、なかなか木から降りる気力がわかない。

 それよりも、こうやって上から皆の喜ぶ声を聞くのが、顔を見るのがたまらなく幸せだった。

 目を開けて、周りを見る。兵士たちは互いに喜び合い、慈しみ合っている。

「……あれ?」

 ルカの姿が見えない。

 狼の近く、兵たちがわらわらと集まっている中心にも居ない。

 きょろきょろと見ていると、足元から声が聞こえた。

「ユーキ」

 眼下を覗くと、ルカが有希を見上げていた。その姿は狼の返り血で、あちらこちら赤く染まっている。

「降りて来い」

 反論は認めない。というような声だった。

「わ、わかった」

 あわてて有希は幹伝いにゆっくりと降りる。登ったときはあんなにも早く登れたのに、降りるのはとても時間が掛かったような気がする。

 有希が最後の枝からぴょんと飛んで降りる頃には、有希を囲って兵達が立っていた。

「わぁ!」

 驚いて思わず一歩下がると、後頭部を幹にごちんとぶつけた。星が見えそうだったが星は見えず、代わりに痛みで涙がにじんだ。

「~~~~っ」

 声にならない声を上げて蹲る。こんな姿を皆に見られているのかと思うと恥ずかしくて顔が上げられない。

「――ユーキ」

 すぐ側で声が聞こえる。涙目になりながら顔を上げると、厳しい顔を浮かべたルカが、片膝ついて有希と目線を合わせていた。

「どうしてこんな所に居るか、兵達は一体何をやっていたのか、聞きたいことは多数あるが――」

 怒られる。と身をすくめると、ルカは微笑んだ。――有希の見間違いではなく、本当に微笑んでいるのだ。

「よくやってくれた。お前のお陰で被害が少なくて済んだ」

 大雑把に血を拭ったのだろう。顔のあちこちに赤い跡が付いている。

 有希を囲んでいた兵士達の顔を見やると、皆次々に跪き、頭を垂れた。

「皆もお前に礼を言いたいそうだ。代表して俺から言わせてもらう――――ありがとう」

「へっ!?」

 ありがとう。その言葉に思わず素っ頓狂な声が出た。

「…………何だ。何が言いたい」

 有希が穴が空いてしまいそうなほどに見つめたからだろうか。ルカはまた仏頂面に変わり、更に有希の額を軽く小突いた。

「いや、ルカにありがとうって言われるのが、なんか慣れなくて」

 仏頂面の眉間にきっちり三本、皺が寄った。

「――なら、二度と言わないことにしよう」

「え、嫌だなんて言ってないから! こう、なんていうか……くすぐったい感じがするだけだから! 気にしないで!」

 ルカの眉間に更に二本、皺が加わった。

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