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隊列の中ほどに有希達は居る。少し前にはルカ達が、少し後ろにはセレナ達が居る。そしてその前後には騎馬や歩兵の人々が幾人も居た。
このままでいけば、明日あたりから馬車を捨てて山に入る事になるだろう。
そう言われていた日の午後の昼下がり。
昼食の煮炊きが終わり、馬車の中の荷物を整頓しながら出発の準備をしている時。有希は食後の紅茶をメイに淹れて貰い、片付けをしているメイを尻目に茶を啜っていた。
「…………あれ、なんだろう」
遠く、森の奥から、紫がかった霧のような、もやのようなものが昇ってゆく。
「ご、ご報告! 申し上げます!」
遠くから、兵の一人がもの凄い勢いで走ってくる。どんどん近づいてくるその声はとても逼迫している。
「何事ですか。そのようにうろたえて、無礼ですよ」
鋭い声でメイが兵を叱責すると、兵は滑り込むように有希の前にひれ伏す。
「伝令です! 隊最前部にて、狼型の魔物一体と遭遇。ただいまルカート様の指示の許、殲滅作業中ですがまだ他にも居るやもしれません。只今、兵をこちらに向わせておりますが、馬車の中にて隠れているようにと、ルカート様からのご伝言にございます」
メイが悲鳴に似たような声をあげる。
「魔物ですって!?」
「では、これより後方にも伝令に向いますので、御前を失礼致します!」
兵士は慌しく一礼すると、更に後方へと駆け出していた。
「魔物……」
呆然と兵士が走り去るのを見送り、とうとうやってきてしまったそれに打ちのめされてしまう。
「ユーキ様、早く馬車の中に隠れてください!」
ぐいと腕を引っ張られ、紅茶の入ったカップが落ちる。ぱしゃっと音を立てて落ちたそれには目もくれず、メイは有希を馬車の中に押し込めた。
「魔物」
狼型の魔物が一体。兵士はそう言っていた。
魔物が蔓延るようになる。ヴィヴィはそう言っていた。
ほとんど伝説のような生き物だと、聞いていたのに。
「うそ……」
地震が起きた。
魔物が出た。
あと何が起きるとヴィヴィは言っていた?
この世界が確実にはじまりに――終焉に向かっている。
「やだ……」
まだ自分は何も出来ていないのに。
まだ何をすることができるのかもわかってないのに。
窓から、メイの背中が見える。扉を叩くと、メイが振り返る。扉とメイが離れたのを見て扉を押し開ける。メイが驚愕した顔で有希を見る。
「メイも、一緒に隠れてよう」
「そんな……なりません!」
一人でいると、心配でたまらないのだ。
――ルカは? あの兵士は『ルカート様の指示の許』と言っていた。ルカも魔物と戦っているのだろうか。そう考えると、不安で不安でたまらない。一人になりたくなくてたまらない。
「お願い……一人は、嫌なの。一人だと、嫌なこと考えちゃう」
「ユーキ様……」
馬が嘶く声が聞こえる。それから、大地を蹄が蹴る音。
メイが、弾かれたように振り返る。
「ユーキちゃん!」
「セレナ! ヴィーゴさんも!」
セレナは馬から飛ぶように降りると馬車まで駆け寄り、扉の前をメイに譲られると有希の顔を両手で包み込む。
「聞いたわ、前の方で魔物が出たんですって? ユーキちゃんは今私が見えてる通り、無事ね?」
「う、うん。大丈夫、でも……でも」
「大丈夫よ、大丈夫――こんなに真っ青になっちゃって、可哀想に」
セレナの温かな手が有希の前髪をかきあげるように撫でる。セレナはヴィーゴを振り返る。ヴィーゴはセレナと目で合図をすると、手綱を引いて前列へ駆け出してしまった。
「大丈夫よ。――心配しないで」
「だけど、魔物が。ルカが、みんなが……」
「大丈夫だから、ユーキちゃん落ち着いて。すぐに殲滅したっていう報告が来るわよ」
セレナの腕をぎゅっと掴む。
ざわざわと人の声と足音が聞こえて目をやると、十数名の武装した兵士が有希の名前を呼んで駆け寄ってくる。口々に有希の安否を気遣うような言葉を発する。
「ユーキ様、ご無事でいらっしゃりますね」
「ルカは!?」
「ただ今、交戦中でございます……」
跪いた兵士の一人が答える。それ以外の兵士は有希の馬車の周りに立ち、辺りを見回している。
次いで、人の足音と呻き声。それから激を飛ばす声が耳に入る。大丈夫か、しっかりしろ。そんな声に、有希もセレナも声のありかに目をやる。
負傷した兵が幾人か、他の兵士に連れられていた。
「――――っ!!」
とある兵は片腕を失い、とある兵は縛られた太腿から血を流している。
もう少しだ。もう少しだから頑張れ。そんな声が響く。
「ユーキ様、御目に障ります」
セレナの後ろで跪いていた兵士がうろたえるような声を出す。
――有希達の後ろには、他の侍女や医者が居る。きっとそこに向かうのだろう。
「ユーキ様、私も救護の手伝いに参ります。ビューテント様、ユーキ様をお願いしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、わかったわ」
「では、ユーキ様、馬車から出るような事はなさらないでくださいませね」
メイがそう言って一礼すると、負傷した兵のもとへ駆ける。そして兵の肩を持って隊列の後ろの方へ向かっていった。
「……魔物って、そんなに強いものなの……?」
「正直、私も魔物なんて見たことがないから、わからないの……でも、魔物が出たのもこれが初めてじゃないらしいし、」
「嘘!」
「本当よ。その時はすぐに殲滅できたから、ユーキちゃんにいらない心配を掛けさせないようにっていう配慮があってでしょうね。――今までだって大丈夫だったんだから、今回も大丈夫よ」
宥めるように笑みかけられても、有希の心のざわつきはちっとも収まらない。
今までも魔物が出ていた?
すぐに殲滅できていた?
「じゃぁ今回は、どうして……」
続きの言葉が出てこない。セレナも苦い顔をしている。
わかっている。今回は違うのだと。
ヴィーゴが向かった。ということは、有希が今見た人間以外にも負傷した人が居るだろう。
セレナの腕を掴んでいた手に力がこもる。
自分は今、何をすることもできない。
そんな無力な自分が歯がゆくて仕方がない。
なにもしてやれなくて、こうやって守ってもらうしかできない自分が嫌で嫌で仕方がない。
泣きたいほど悔しい気持ちでいると、また負傷した兵が運ばれていく姿が目に入る。
「――――っ」
有希はセレナの腕を離すと、馬車の椅子の部分を持ち上げる。
「ユーキちゃん?」
そこは荷物が置けるようになっていて、有希の唯一の荷物――弓の入った袋と矢筒がぽつんと入っている。
有希はそれを取り出して、肩に掛けた。
「……ユーキちゃん、まさかとは思うけど、嫌よ、私。だって私……」
扉の前で苦い顔をしたセレナに、有希は挑むように言った。
「セレナ、あたしも魔物の所に連れてって」
「……私、数え切れないくらいの人達から顰蹙を買うわ」
「お願い! あたし、何も出来ないのが嫌なの! こうやって守られてるだけなんて耐えられない!」
うろたえて「でも、だって……」と言い続けたセレナは、うろうろと視線を巡らせて、それから目を閉じた。
「わかってる、無理言ってるのわかってるけど、ねぇセレナ、お願い! あたしは、ちゃんと見ないといけないの。だってあたしが何も出来ていないからこんな事になっちゃってるんだもの。あたしはちゃんと、それを見なきゃいけないの!」
「私、ヴィーゴにユーキちゃんを見てるようにって言われたもの……主人の命令なの」
「お願い!」
セレナの肩を掴んで前後にゆする。けれどもセレナの身体はびくりとも動かない。
「……でも」
セレナが目を開く。口元は笑った形をしている。
「どこで見ているかだなんて言われてないわ」
「セレナ!」
「正直、私もまだ魔物を見たことなくて――うずうずしてるのよね。怒られたって知るもんですか。私はユーキちゃんの味方だから、ユーキちゃんのしたいようにした方がいいと思うの」
有希は目に喜色を浮かばせて、セレナに抱きつく。セレナの首から手を離した有希とにんまりと笑い合うと、二人は兵士の止める言葉も聴かず乗馬して、隊の前方に向かって駆け出した。