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待って欲しい。そう言ったルカはどこか苦々しげで、しばらく言葉を発しなかった。
有希もどうしていいのかわからず、時折暖炉で燃えている木が爆ぜる音がするのを聞いていた。
「…………それから、あの人の事か」
発せられた声に、どこか疲労が浮かんでいるのは気のせいだろか。
「あの人が指輪を持っているのは、どうやらアインの部屋から――あぁ、お前の持っていた指輪はアインに渡していたんだ。ユーキに会えたら渡してくれと。アインはリビドムに戻ってからしばらくの記憶が混濁していて休養を取っていたんだ。その間に、アインの所から勝手に持ち出したそうだ。その所為でユーキが死んだとアインは長い間勘違いしていたらしい」
「……勝手に?」
「あの人はどうも、俺の事となると無駄に鼻が利くんだ」
そう言うルカは仏頂面だが、どこかげんなりとしている。
「あの指輪も、あの人が持っていて安定しているなら、そのままでも良いと思ったんだ」
「……安定?」
いまいち話が見えない。
「ルカにとってシエさんって、大切な人なんでしょう? なのにどうしてそんな風に言うの? それじゃあまるで」
「誰がいつ、あの人を大切だと言った?」
「え?」
「ナゼットがそんなことを言ったのか?」
「え、ナゼットは、ルカが荒れていた時期を知っているって……」
ルカは渋い顔をして、はぁー、と長い息を吐いた。
「確かにそんな時もあった。だが、あの人は俺の私物を持ち出したり、侍女を虐げたり、俺に色目を使っただの何だの難癖を付けては他の貴族の娘を糾弾したりとだな……」
語尾が濁る。ルカ自身もシエの対応には手を焼いているということがわかった。
「とにかく、俺が何をしたかは知らんが、あの人の俺への執着は病的なものだ。大切だの云々の前に、遠ざかって貰いたい程だ。以前も婚約という形を取って大人しくさせたが、今回も――指輪一つで大人しくなってくれるならそれでいいと思ったんだ。」
さらりと金髪が揺れる。青い瞳が有希を捕らえて束の間、金色のまつげに縁取られたまぶたが落ちる。
「……は、良いか」
「え?」
「覚悟は良いか?」
「覚悟?」
ルカが目を開け、そしてまた有希を見上げる。
「そうだ。覚悟だ。あの人は指輪が無くなった事――お前の所に戻ったことを知ると、それこそ狂ったように追いかけてくるぞ。それでも、指輪が必要か?」
ユビワガ、ヒツヨウカ。
「当たり前じゃない……」
思わず口からこぼれる。
「……契約の指輪は、契約とは本来関係のないものだ。たとえ指輪がなくても、俺とお前の契約関係は成立している。――それでも、不安か?」
「あたしにはあの指輪しかなかった。ルカとの絆も信じられない、この世界との繋がりもない。あたしを支えてたのは、指輪と、その先に続くルカの存在しかなかったんだから」
ルカなら。ルカなら。
幾度そうやって自身を支えただろう。慰めただろう。
有希の手を包む手には指輪が嵌っている。なのにそれと同じものを持っているはずの有希は、それを持てずに居る。――他人がそれを所持しているのだ。
それが許せなくてたまらない。
「あたしが、ルカの主人なんだから。あ・た・し・が。だから指輪を持つ権利もあたしにしかないはず。覚悟も何もない」
ルカのシエに対する気持ちは聞いた。
もしもルカがシエに指輪を渡したいと思うような存在ならと思った。けれどもそれは杞憂だった。
それならば、遠慮する理由なんてどこにもない。
ルカはため息を吐いた。
「お前はあの人の執念深さを知らないから言えるんだ。狂乱してお前を追いかけるぞ。誇張ではなく」
「しつこいよ。ルカが嘘を言わないのなんて知ってる」
綺麗な仏頂面の眉間に皺が寄る。
「もしあたしが、シエさんに追いかけまわされたとしても、騎士のルカが何とかしてくれるでしょう?」
にっこりと笑むと、眉間の皺が濃くなった。
「俺たちの絆はそういうもので図れるものじゃない。……そこまで不安がるとは思わなかったな」
「誰かが持っていた方が良いとか、面倒なことになるとか、そういう理屈じゃないの!」
むっつりと言うと、ルカは盛大にため息を吐き出して、のっそりと立ち上がった。それにつられて、有希は数歩後ずさる。
「る、ルカ?」
ルカは有希をすり抜けると、ベッドと暖炉の間の少しだけ開けた場所に立つ。
「両の手を出せ」
言われるままに手を出すと、ルカが騎士証を懐から取り出して有希の左手に握らせた。
腰に掛かっている剣を鞘から抜き、それを右手に握らせると、その場に傅いた。
(あ……これ……)
この光景を知っている。
どきどきと心臓が鼓動を打つ。
一体この行為が何を示すのかわからないのに、胸が高鳴ってしょうがない。
「ちゃんと肩を叩けよ――――私チェンドル・ルカート・アドルンドは、この命の続く限り、貴方を慕い、守り抜きます。この忠誠の言を糧に、証を頂戴致します」
頭をたれていたルカがちらりと有希を見る。あわてて有希は右手に持っていた剣の平でルカの肩をぽすんと叩いた。
その瞬間、いつか見たときのように騎士証が光りだす。かわらないまばゆさに目を閉じてしまう。閉じても真っ白な光は瞼を通って有希に直接流れ込んでくる。
どのくらい光を受けていただろう。まぶしさで目がしぱしぱしてしまい、何度も瞬きをしている間に、剣も騎士証もルカに取られていた。
取られたその右手には、泣きたくなるほど懐かしい、紫銀の指輪が嵌っていた。
「これでいいだろう。――まだ何か言いたいことはあるか? 今夜くらいは早く寝たいんだ」
剣を鞘に戻しながら、つかつかとベッドに歩み寄るルカの服のすそを、有希はむんずっと掴んでいた。
「――なんだ」
少々呆れ顔のルカは、それでも有希に振り返る。
「これは、シエさんが嵌めてた指輪と同じもの?」
「ああそうだ。契約の指輪が売買に利用できないのはこの為だ。何度でも持ち主の元へ戻るからな」
それを聞いて有希は、右手の中指に手を伸ばし、指輪を外す。
指輪を握り締めてルカを見上げると、ルカは驚いたように有希を見ている。有希が握った手をルカに差し出すと、物言いたげにそれを受け取る。
「あたしがルカの選んだ主人なのよね。なら、ルカが直接、嵌めて」
右手をルカに差し出す。その手はまっすぐルカに伸びている。
ルカは苦笑とも嘲笑とも――それとも別の意味の笑みなのか。有希には判別しかねる笑顔を浮かべ、もう一度傅いた。
「――なんなりと」
悪戯な声が、小さな小さな小屋に響いた。