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聞きたい。聞けない。でも気になる。聞きたい。だけど聞けない。
そんな終息のない悩みが、有希の中をくるくると駆け回っている。
考えないように、考えないように振舞っても、それは突然去来して、考えないようにしていたバリケードをいとも簡単に崩壊させて、有希の中をぐちゃぐちゃと不安にさせては去っていく。
(あたしには、やらなきゃいけないこと、あるし。だからそんなこと別に、どうだっていいもん)
心に湧く何かを打ち消したくて、繕うようにカップを口に運ぶ。持つには暖かいが、飲むには熱すぎるそれに、舌がひりひりと痛む。
よっぽど疲れているのだろう、ルカがこめかみを揉んでいる。指の長い大きな手は、ルカの小さくて綺麗な顔を覆っている。その中指には、紫銀に光る、指輪。
思わず自分の手と比べてしまう。ポットを持つとき、ミトンがぶかぶかになってしまう程小さな手。唯一あった装飾品の指輪を失ってしまった、子どものてのひら。
言いたいことがあるなら言えとルカは言うけれど、言えるはずがないではないか。
(だってあの人、ルカの婚約者だし)
本来ならばルカは、シエと契約を結ぶ筈だったのだ。だってそうではないか、契約はプロポーズと同義だとセレナが言っていた。
(あるべきものが、あるべきところに収まっただけじゃない)
自分に言い聞かせるようにしても、心のもやもやは晴れない。言える筈がないのだ、指輪を返して欲しいだなんて。
一生懸命作った――少し砂糖を入れすぎてしまったが。スコーンを無言で次々と口に入れていく姿を見れて、それがとても嬉しかったのに。どうしてなのだろう。突然、これを作ったのがもしシエならば、ルカはどうしただろうと思ってしまったのだ。今のように、わかりにくいけれど満足気に微笑むのだろうか。
そう考えたら、心臓をきゅっと掴まれたような気分になってしまった。こころのどこかに隙間風が吹くような、そんな心許ない寒さ。そうしたら、嬉しかった気持ちは砂の城のように攫われてしまった。
ルカはもう休憩を終えて、眠っているアインの横に積まれていた書類の選別をしてはサインを書いたり、箱の中に書類を入れたりしている。アインの背には、薄手の毛布が掛かっている――有希が掛けたものだ。
(どうしてこんなことばっかり考えちゃうんだろう)
シエとルカはこれからどうなるのだろうか。ルカはこれからリビドムに向かう。ならばシエは? シエは、どうするのだろうか。
「ねぇルカ」
声を掛けてしまった。話し掛けなければとすぐに後悔した。けれどもそんなことは露も知らぬルカは、何だと言いたそうに、一瞬だけ有希に視線を寄越す。
銀のトレイをぎゅっと抱きしめ、気合いを入れる。
「あ、あのさ……あの――シエ、さんってさ、一緒にリビドムに、行くの?」
ルカが書類から有希に視線を移した。
「何故だ?」
眉間に皺が刻まれている。立ち入った話を聞いてしまっただろうか。
「あ、いや、だって……シエさんは、ルカのこんやくしゃ」
「お前には関係ないだろう」
「!!」
はじかれるように顔を上げると、ルカは仏頂面で書類に目を遣っている。その空気はピリピリしていて、これ以上その話をするなとでもいうようだ。
『お前には関係ないだろう』
先ほどのルカの言葉が反響する。
(関係ないよ。全然関係なんてない、だけど関係なくないよ。だって……)
かすれるような声が出る。指が、震える。
「あたしが、ルカの主人だもん……」
「――何だ。何か言うことがあるなら、もっとでかい声で話せ」
「~~~~っ」
なぜだか胸がむかむかする。どうしてこんなにももやもやするのだろう。そのなんとも言いがたい感情はふつふつと煮えて沸点を超えて有希の口から飛び出す。
「~~関係なくて悪かったわね! ルカには関係ないかもしれないけど、あたしには関係あるの! ――なによ、言いたいことがあれば言えって自分は言うくせに、ルカはあたしに何も言ってくれないじゃない!」
そうだ。全てはルカが説明してくれれば、言ってくれればいいのだ。そうすれば有希は、こんな感情をもてあますことも無い。
シエのこと、契約のこと、指輪のこと、ルカ自身のこと――。
「関係なくないもん。だってシエさんはルカの婚約者で、本当は契約する人で、でも、ルカと契約したのはあたしで……っ」
口からするすると言葉が出てくる。有希自身、何を言いたいのかはっきりとしない。ただ感情のまま、口が勝手に動くのだ。
「だから、関係なくないんだってば! 気になっちゃうんだもん、しょうがないじゃない!」
何を言いたいのか、何を言ったのか。有希自身よくわかっていなかったが、もやもやした感情はだいぶなくなった。
言い切った達成感からか、強気な気持ちでルカを睨みつける。
(あたしは言いたいこと言った、だからルカもこたえてよ)
ルカは幾度か目を瞬かせると「それが?」と冷たく言った。
「あの人と俺が婚約していて、俺はお前と契約している。それがどうした」
「……っ」
(あの人……)
名前を呼ばないその言葉はどこか親密で、強気な気持ちはしおれてしまう。
(ルカにとっては、たいしたことない、とるにたらないことなんだな……)
それがわかってしまった途端、むなしさで胸がいっぱいになる。はぁとため息を吐くと、机に突っ伏して寝ていたアインがもぞもぞと起き上がる。
「ん……。あ、あれ、僕いつの間に寝て…………っあぁ! ルカ様すみません! 僕が寝てた所為でルカ様に仕事押し付けてしまって!」
バタバタと立ち上がると、ルカの手から書類をひったくった。
「あぁ、こんな『宿屋前の店屋の"おやき"が自分の店の物の盗作だ』なんていう陳情書はルカ様がわざわざ読まれるようなものじゃないですよ! 貸してくださいっ」
幾分か寝たから元気になったのだろう。アインはまたバタバタと椅子に腰掛けると、物凄い勢いで書類の選別に取り掛かった。
「本当にすみません、ルカ様。ちょっと書類が溜まるまでどうか休憩していてください」
ルカはそんなアインにかまわず、有希を見ている。有希はいたたまれなくなって、じくじくとむなしさが痛む心から逃げ出したくなる。
「あ、じゃぁあたし、もう一杯紅茶淹れてくる。アインさんも飲むよね?」
「え? あ、ユーキ、来てたんですね。では、お言葉に甘えていただきます」
「わかった。すぐ持ってくるね」
ワゴンの上の水差しを掴んで、踵を返す。
「ユーキ、まだ話は終わってない。どうしたのかと聞いただろう」
「……もういい、ルカがどうも思ってないなら、それでいい」
「ユーキ」
言って、扉の取っ手を掴んで思い切り引っ張る。痛いくらいに背中に視線が刺さるから、重い扉がゆっくりと開く時間がもどかしい。
有希一人が通れるほどの隙間が出来ると滑り込むように外に出て、逃げるように駆け出した。逃げ出すことに一生懸命だったために、閉じていた扉の向こう側にナゼットが立っていた事に気が付かなかった。
「……なんだかなぁ」
ナゼットは頭を二三度掻いて、有希が走っていった後をゆっくりと追い始めた。