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ぐずぐずと何回鼻をならしただろう。
嗚咽は収まり、少しだけ冷静さを取り戻していた。
離してもらおうと、両手に力を入れたが、パーシーの広い胸はびくともしなかった。
「……離して」
「泣き止んだか?」
「泣き止んだから」
そう言うと、小さな嘆息と共に手が離れる。有希とパーシーの間に、秋風が入り込む。
「…………」
「…………」
何を言ったらいいのかわからない。パーシーも同じなのか、困った風に腕を組んでいる。そのまま黙り込んでいるのも気まずくて、パーシーが何かを聞きたいなら、早く言ってくれと心がはやる。
「あたしに、聞きたいことあるんでしょう?」
我ながら、卑怯な言い方だと自嘲した。眼を合わせないようにしていると、聞きたいことがまとまったからなのか、意を決したからなのか。頭上から声が降ってきた。
「アンタ……アイツなのか?」
その言葉には主語も述語もなかったが、パーシーが酷く混乱しているだろうこと、そして混乱している彼の言いたいことは分かった。
「そうだよ。……マルキーで会ったのも、孤児院で会ったのも、あたし」
パーシーが黙り込む。何かを考えるように、有希をじっと見つめる。有希は目を合わせないように、ふいと横を向いた。
「……アンタ、魔女なのか?」
やんわりと振る。
「けどよ、あの……印は」
「あれは違う。つけられたの」
胸元をぎゅっと握り締める。そこはもう痛みはないが、あのときの感情がわきあがりそうで、むずむずと疼く。
「そう……か。じゃぁどうして」
「…………」
言っても、いいのだろうか。
言ったら、信じてもらえるのだろうか。
有希は逡巡してから「信じてもらえないかもしれないけど」と前置きをして、今までの経緯を話した。
オルガに捕らえられて、印を付けられたこと、理由は知らないけれど、魔女として処刑されてしまうことになったこと。処刑場で、伝説の魔女――ヴィヴィに救われてリビドムに居たこと、姿を変えられたこと。そこで出会ったセレナとヴィーゴと共に十日熱を治して回ることになったこと。その一つが、パーシーと出会った孤児院だったこと。
話し終えると、パーシーは難しい顔をして「そうか……」と一言だけ発した。
「――奇跡の娘って、やっぱりアンタの事だったんだな……」
「…………え」
どきんと心臓が跳ねる。
「噂が流れてるんだ。十日熱を治すことができる、奇跡の娘がアドルンドに居るって。ソレ、アンタだろ。目ぇ見て納得いったわ」
(どうして知ってるの)
どきどきと心音が耳障りだ。逃げ出したい衝動に駆られる。
「――――アンタ、アドルンドでやるべきことがあるって言ってたけど、もう終わったのか?」
「あぁ……もぉ、いいみたい」
自嘲半分、諦め半分で笑う。
ルカを助けることはできた。けれども、これからの事を考えると心がからっぽになってしまったように気力が起こらない。だって有希には何もできない。パーシーは眉間にシワを寄せた。
「…………アンタ、変わったな」
「そう?」
ふっと笑ってパーシーを見遣ると、ひどく軽蔑したような表情を浮かべている。
「あぁ……前の方が、断然いいな」
「なによそれ」
有希の声にも怒気がはらむ。
「今のアンタよりも、孤児院に居たときの――俺に死なないっつった時のアンタの方が千倍マシだっつってんだよ」
(なによ、なによそれ。だって、あたしは)
怒りなのか悲しみなのか苦しみなのか。えもいわれぬ感情が腹の底から湧き出し溢れる。それなのに、ぽっかりと穴の開いてしまった心は微塵も震えず、ただ無表情に突っ立っていることしか出来ない。そんな有希をどう思ったのか、パーシーは有希の肩を掴んで思いっきり揺さぶった。
「――ックソ。 なんなんだよアンタ、ワケわかんねぇ! あん時のアンタはどこ行ったんだよ、十日熱をなんとかするって言っていたアンタは! ――アンタの噂はリビドムやマルキーで耳にしていた。アンタは着実に言ったことを実行に移していた。それなのに俺は何も出来ていなくて……アイツすげぇなって……俺も気張んなきゃなんねぇなって…………そうやって――ッ」
パーシーは有希を掴んだ手を引き寄せると、前かがみになって有希の肩口に額を寄せた。
「なぁ……アイツはドコ行っちまったんだよ。俺が死ねって言っても睨んできたり、チビ達と一緒に遊んでた――――あの日のアンタに……ユーキに、戻れよ」
痛いくらいに肩をぎゅっと掴まれた。その力強さに射竦められたように動けない。
昔の有希に戻れ。その言葉が有希の虚無感しかなかった心に突き刺さる。突き刺さったそれから、どろりとした感情が溢れ出す。
「……なによ、それ」
パーシーが顔を上げる。至近距離にあるその顔は、とても悲しそうで、どこか有希に縋るような色をしている。有希はその色を知っている。
皆が有希に縋っていた。十日熱を治してくれと、この世界をなんとかして欲しいと。
その気持ちに、一生懸命応えたかった。応えつづけていたかった。
けれどもう、それはできなくなってしまった。――有希にはもう、何の力もないのだ。
(元のあたしに戻れって!?)
どろりとした感情に火がつく。焼けるように熱いそれは、有希を焼き尽くすように、熱い。
パーシーの腕を振り払う。ニ三歩後ずさって、ぎろりとにらむ。
「――ッ知った風な口聞かないでよ! あたしだって戻れるなら戻りたい! だけど戻れないから苦しいんじゃない! なのにどうしてそういう事言うのよ」
パーシーは突然火がついたように怒り出した有希に驚いているのか、有希の言っている言葉が理解できていないのか、きょとんとした顔で有希を見つめたままだ。その顔がまた、有希を苛つかせる。
「知らない方が良かった! あたしにこんな力があるだなんて、気付かなきゃ良かった! 知らないままでいたかった」
「……力?」
「みんなの言う――奇跡よ!」
(言わせないでよ)
ぶつけどころが分からない怒りは、やがて悲しみに転ずる。苦しくて苦しくて、でもその気持ちが上手く言葉にならなくて、じんわりと涙が浮かぶ。
けれど、その涙は零れる前に、パーシーの発した言葉で引っ込んだ。
「だから、何だよ」
「え?」
思考が停止する。だから、なんだよ。その言葉が脳に引っかからない。今度は有希がきょとんとしてしまう。
パーシーが一歩、近づく。それだけで、有希の二歩分はある。顔を上げると、パーシーはひどく真面目な顔をしている。
「一つだけ聞く。――アンタ、俺と会ったとき、その力のこと知ってたか?」
「知らなかった、けど、」
「俺の知ってるアンタは、打算も計算もなく、ただ民に尽くしていた。本気で心配して、本気で面倒見てた。…………バカみてぇに真っ直ぐで、生意気で、ほんっとクソ生意気で……それでも、懸命に十日熱をなんとかしたいっつってたんだよ。――――アンタに力があるとかないとか、そういう話じゃないだろ」
ため息混じりに呟かれる。
その瞬間、ざぁっと風が吹いた。
風は蒸し暑い熱気を孕んでいて、有希をあの夏の日に連れ去った。
あのときの風景が流れる。夕暮れに染まった孤児院、子供達の笑顔、院長やセレナの慈しむような瞳、病床のチルカ。それらが走馬灯のように有希の仲を駆け巡る。
(そうだ)
そうだ。どうしてわすれていたんだろう。
そうだ、どうして気づかなかったのだろう。
あのむせるように暑い日のことを。
あの時有希は何が出来ていた? ――何もできていない。
それは今も同じことなのに、今と全然違うのは何故。
あの時は何を考えていた? ――自分に、何ができるだろうって考えてた。
考えて実行することで、何かの、誰かの、この世界の役に立ちたいと思っていた。
その気持ちは今も同じ? ――変わらない。でももう力なんてない自分に何ができる。
何もできていない。力が無くても――自分にできることをやろうって決めてたのは誰?
どうして忘れていたのだろう。何も出来なくても、何かしようと思うことを。
それに気づいた瞬間、突然ぼろっと涙が零れた。
「……っあれ」
「っ何で泣くんだよ!」
「ご、ごめん、泣くつもりは無かったんだけど」
有希自身びっくりして、慌てて目じりをこする。しかし、涙は有希の意思に関せずダクダクと流れつづける。
パーシーはうろたえて、何故か辺りを見回している。
「早く止めろよソレ! 俺が泣かしたみてぇじゃんかよ」
止めようと自分に言い聞かせ、何度も手の平で拭ったが、やはり涙は止まらない。いつも泣くときは悲しくて苦しくて仕方がなかったのに、今はどこか心満ち足りていた。だってこんなにも、暖かい。
「あはは――ごめんパーシーちゃん。なんか止まんないみたい」
流れるをそのままに、にへらっと笑いかける。
「……っんな顔して、笑ってんじゃねぇよ」
パーシーの顔がくしゃっと歪んだと思うと、ぬっとパーシーの手が伸びて後頭部を掴まれ引っ張られた。前に倒れる、とバランスを崩すともう片方の手が腰に回る。パーシーの顔が近づく。
(あ、うそ)
ぶつかる。そう思った瞬間、ぐらりと地面が揺れ、間を置いて地響きが轟いた。