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走りながら泣けば、涙は横に流れるものなのかと思ったが、現実にはそういうこともなく、涙は頬を伝うばかりだった。
けれども、風が涙を乾かす手助けをしてくれた。
人ごみを抜け、街中を抜ける。片腹が痛くなってもかまわず走り続けた。
誰も居ないところに行きたかった。
誰か居るところに行きたかった。
そんな矛盾が有希を突き動かしていた。
息が切れる頃には、雑木林にたどり着いていた。
ひらひらと茶色い葉が揺れ落ち、人ごみとは違うざわめきが起きる。走るたびに足と枯葉が擦れあい、心にくすぐったい音がたつ。
木の幹に背中を預けて、呼吸を整える。
心臓が躍動して収まらない。走ったからというのもあるのだろうが、不安や焦燥が有希の鼓動を駆り立てる。
逃げてしまった――。
城から出ないと言ったのに、城下を抜けて外に近いところまで来てしまった。
申し訳ない気持ちが込み上げたが、今は泣き顔を誰にも見られたくなかった。
今までずっとみんなに気まずい思いをさせて気を遣わせてしまっていたのに、これ以上恥の重ね塗りはできなかった。
また目頭が熱くなる。泣くまいと唇を噛み締める。
こらえてもこらえても、涙がポロポロと零れる。
不安で不安で仕方が無い。
この世界で誰にも必要とされていないような気がして。
ひとりぼっちになってしまうような気がして。
息をするのも苦しい。
服の袖で拭っても、涙がわきでてくる。濡れた袖がひんやりと冷たい。
風が吹く。ひんやりと冷たい風は枯れ葉を巻き上げてからからと歌う。
歌に混ざって枯れ葉を踏みしめる音が聞こえた。それもすぐ近くで。
ぎくりとして一歩後ずさる。背中に幹のゴツゴツした感触が押し付けられる。静まりはじめていた心臓がまた飛び跳ねる。
誰が、どうしてこんな場所に。
誰もいないものだろうと気を抜いていた自分を責める。こんなに近くに来るまで気づかなかっただなんて。
ばつの悪い気分でどうしようと辺りを見回していると、視界の中にあった一本の木の陰から、その人物はひょっこりと現れた。
「誰か、いるのか?」
(パーシー!)
瞬時に「逃げたい」と思った。
何故彼がアドルンドにいるのか、フォルにいるのか。疑問は沢山浮かんだが、それよりも今の有希を見られたくなかった。
いろんな感情がリフレインする。彼に死ねと冷たく言い放たれた時の悲しさ、虚しさ、戸惑い。リビドムの孤児院で見た優しい姿、真摯な姿勢、一緒にこの世界を良くしたいと話した、あの嬉しさ、有希に死ねと言ったことを後悔していると言った時の、胸のしめつけ。
その全てが交錯する。逃げたいと思ったのに、木の幹に縫いとめられたように動けない。ただ、パーシーを見つめていることしかできない。
パーシーが辺りを見回す。程なく有希の姿に気づく。
視線が絡む。
(お願い、見ないで)
そんな願いは叶うはずなく、パーシーは目を見開いた。
「――――っお前!」
一歩足が踏み出される。弾かれるように有希の身体が動く。
距離にして十数メートル。有希は木の幹を押して駆け出す。
「はぁ!? ちょっ! おい待てよ!」
背中に言葉がぶつかる。絡みついた言葉を振り切るように走る。
後方から枯れ葉を踏みつけて走る音が聞こえる。その音がどんどんと近くなってゆく。
すぐ後ろで枯れ葉の音が響く。走っている息遣いも聞こえる。
追いつかれてしまう。その恐さで膝の力が抜けてしまいそうだ。
「待てって! オイ!」
肩を掴まれて振り向かされる。その腕を振り払って逃げようとしたら、パーシーの掌が伸びてきて手首を取られた。
「ハァッ……足はえぇよ……お前……」
「…………」
泣き顔を見られたくなくて、顔を伏せる。
あっという間にパーシーの呼吸は整う。手首を上に引っ張られる。パーシーの声には困惑がにじんでいる。
「お前、何なんだよ」
「…………」
「お前……アイツ、なのか」
「…………」
沈黙が訪れる。風が吹いて、茶色い葉が宙を舞う。一枚の葉が木から地面に落ちるほど時間が経った。
怒気なのか何なのかわからないが、有希の手を掴んでいる手に力が込められる。痛みで顔がしかむ。
「なぁ、何でお前がこんな所にいるんだよ! お前はケーレで……っ! 死んだ、はずで…………」
パーシーが言葉に詰まる。
「なんなんだよ……なんなんだよ! っアイツは、お前だったのかよ!!」
手首を掴まれていた方とは別の手で、顎を掴まれて無理矢理顔を上げさせられる。
群青色の瞳が有希を見る。顔を上げた反動で目に溜まっていた涙が一筋零れた。
「!?」
「や……だっ! 見ないで!」
掴まれていない方の手で、パーシーの手を払ってまた俯く。
「…………お前、泣いてんのか?」
返事をしないで俯く。離して欲しいという意思表示に、掴まれている手を何度か引く。けれども、びくともしない。
見つかってしまった。
パーシーは何と言うだろう。有希はパーシーを騙した事になるのではないだろうか。
あの時有希が死んだと、傷ついて後悔して、パーシーは有希に言ったのに。有希は自身がその人だと言わなかった。
(ホント最悪だ、あたし)
取り返しのつかない悪戯をしてしまった子どものような気分だ。ばつが悪くて仕方が無いのに、どうしたらいいのかわからない。
「……っだぁもう!」
手首を思いっきり引かれる。踏ん張りきれなかった有希は引っ張られるがまま前方につんのめる。目をぎゅっと閉じる。鼻が胸板にぶつかる。
ずっと捕まっていた手が開放される。その代わりに腕が背中に回ってぎゅうっと抱きしめられる。
「!?」
咄嗟にパーシーの胸に手を当てて押し返そうとしたが、背中に回った手が放してくれない。
「なっ」
なにするの。そう言おうとしたが、パーシーが言葉をさえぎる。
「あ~……アレだ。リタがな、泣いている時こうすると泣き止むんだ。……顔も見えないし、これでいいだろ」
もう片方の手が伸びて、頭を撫でる。まるっきり子ども扱いのそれだったが、嫌ではなかった。
「とりあえず、泣き止め。俺が泣かせてるみてぇじゃねぇか」
背中をトントンと叩かれる。その心地よさに甘えて、パーシーの服をぎゅっと握り締めた。