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季節が深まり、日ごと寒さを増してゆく。
朝方や深夜に時折白い息が混じるようになっていた。
パーシーは襟巻きを正して白んできた空を見る。
(もう助からないものだと思ってたが)
まぶたを閉じて、一昨日の王妃の姿を思い返す。
十日熱への感染を示唆されながらも、王妃――伯母の最後の姿を看取るのは、マルキーの人間ではパーシー以外都合がつかなかった。
アドルンドとマルキーは戦争中であるが、こちらが戦意を持っていないというポーズを取れば、容易にアドルンドの城に入ることができた。
昼前に姿を伺った時、身体中が疱瘡に蝕まれ、それこそまだ息があったことすら奇跡と言えそうなほどだった。
あの姿を見た全員はもう駄目だろうと思ったに違いない。パーシーもそう思っていた。
アドルンドの王子が感染を危惧して誰一人近づかないという事を耳にして、最後の時を見届けようと思っていた。
最後の悪あがきにと医者がやってくると聞いた。昨今アドルンドに現れた、奇跡の少女とうたわれた人物らしい。今まで手を変え品を変え何度も何度も医者はやってきたが、そのどれも全てが匙を投げたというのに、いまわの際が来てまでもまだあきらめないのかと、少し苛ついていた。最後くらい、厳かに送ってやれないものなのだろうかと。
藁にも縋りたい気分だったのだろうが、パーシーにとっては王妃への冒涜のように感じてしまって仕方がなかった。
数十年前、リビドムとの争いに負けたマルキーは困窮に喘いでいた。そして王妃はアドルンドに嫁いだ。まるで身売りのように。
王妃の弟であるパーシーの父、現マルキー王は悲嘆に暮れたが、輿入れの際に貰った金品でマルキーは復興したと聞いている。
その王妃は死してなお、生まれた大地を踏みしめることができないのだと思うといたたまれなかった。
(しかしあれは、一体どんな奇跡が働いたっていうんだよ)
少女が王妃を看た後の姿は、一生忘れられない。
次にパーシーが見たときには、王妃には傷の跡すら見えなかった。肌は精彩を取り戻し、健やかに眠っている姿があった。
完治していたのだ。ものの数時間で。
その翌日には、もう起き上がることができ、見舞ったパーシーと会話できるほどだった。
「やっぱりわかんねぇな……」
吐き出す吐息は白い。唯一同行していた侍従が振り向く。
「パースウィル様、何がわからないんでらっしゃいますか?」
「いや、なんでもねぇよ。ただの独り言だ」
そう言って、ふいと顔をそらせる。
王妃を見舞ったのは、パーシーなりに思うところがあったからだ。
『姉上はいつも正しい。姉上の言うとおりにしておけば何の間違えも起こらない』
そう口癖のように言っていたのは、父、マルキー王だ。
戦争を止めるために王都に戻り、戦争の理由を王に詰め寄ったところ、父王はあの口癖を言った。
(父上と伯母上は密通している……)
父王のその言葉で、パーシーは知ってしまった。
その後、密通の証拠を握ってやろうと城内を探し回った。するといとも簡単に見つかってしまった。父王の私室に、ずらりと並べて保管されていた。恋文を保管するのによく使う形の書箱に。
パーシーは、見舞うという体裁を繕って、王妃に問いただしたかった。なぜ、戦争を起こしたのかと。――否、問いただした。王妃が目覚めたその日のうちに。
『貴方が父上と通じていることは存じております。――けれども俺は、それを問いただしに来たのではありません。なぜ、戦争を起こすのか。それが聞きたいんです』
王妃は少し色の抜けた群青の髪を撫で、それから群青の瞳をパーシーに向けて、ぴしゃりと言い放った。
『そんな事を聞くためにわざわざ来たのかえ? あの子も、お前も、私の言った通りに動けばよい。それだけのことよ』
『そんな事って……』
『これはこの世界にとって必要な争い。お前ももう少ししたら、わらわの行動の意味を理解するであろうよ』
王妃はそれだけ言うと、すうっと眠りについてしまった。
「やっぱり、わかんねぇ……」
この世界にとっては必要だという争い。しかもそれはかりそめの戦争にしか見えない。
戦渦だというのにパーシーはアドルンド城に容易に入ることができたし、最近ではどこかで戦いが起きたという話も耳にしない。膠着状態だと言えばいいのかもしれないが、あまりにも違和感がありすぎる。
「……早く、帰るぞ」
「かしこまりましてございます」
早く帰って、王妃――伯母は信用がならないと父王に進言しなければ。このままではマルキーはアドルンドにいいように使われ続けてしまう。戦争なんて馬鹿げたことは一刻も早く止めさせて、マルキーの復興と繁栄に資金を使いたい。
「帰りの道なのですが、中ほどの山が一番低いので、ここからぐるりと回るように向かいますがよろしいですか?」
「……あぁ」
「そうそう、そのあたりにマルキーの前線があると思うので、将あたりに挨拶して叱咤激励でもなさいますか?」
「……あぁ」
「…………パースウィル様、あまり不用意に生返事はなさるものではございませんよ?」
「……あぁ」
侍従が悲壮な顔を浮かべて馬車に向かう。続いてパーシーも馬車に足を掛ける。
(アイツは、元気だろうか)
この混沌としているアドルンドのどこかに、彼女は居る。
真っ直ぐに見つめてくる黒い瞳。さらりとなびく黒い髪。見ているこちらまで笑みがこぼれるような、笑顔。
彼女は今も、この国の人々に笑顔を振りまいているのだろうか。パーシーとの約束を、ちゃんと遂行しているのだろうか。
(それなのに俺は――)
前かがみになってうつむく。手を組んだはいいが行き場のない思いが行き来するだけだった。
「俺は……なにをやっているんだ」
アドルンド王都を出て一週間。途中で立ち寄った町々は来たときよりも些か活気づいたように見えた。
「しかし、別の町みたいだな……」
フォルに着いた感想は、それのみだった。
「丁度豊穣祭をやっているみたいですよ? 戦争中だというのに……」
「いや、戦争中だからこそ、こうやって士気――とは言わないな。沈痛なカオして居られないって事だろぉよ。活気があっていいじゃねぇか」
町は祭で賑わい、人々が明るい顔で行き交っている。
「……ただ、こんだけ人が出歩けば、十日熱の患者も増えるかもしれねぇけどな」
「あ、それは大丈夫みたいですよ?」
気がつけば侍従は屋台で買ったのか、両手に湯気立ち上る芋を持っている。片方に一口齧り付くと、美味いとつぶやいてパーシーに差し出した。
「……なんだ」
「毒味です。毒は入ってませんのでお召し上がりください」
その言葉の合間に、もう片方の芋に齧り付く。ほふほふと目を眇める姿は、祭を楽しんでいる人そのものだ。
「はぁ……それより、さっき言っていたのは何故だ?」
「? ふぁふぃふぁふぇふふぁ?」
「…………十日熱の患者が増えるって俺が言ったら、大丈夫だって言ったじゃねぇか」
「ヴぁぁ」
「飲み込んでから話せ」
「んぐっ――――んぅ、はぁ。あのことなのですが、どうやら王妃様を治した娘は、この町から引き抜かれて王都に向かったらしいんです。だから、この町の十日熱患者はその娘が全員治してしまったっていう話らしいですよ。……あぁ、なんだか口の中がぱさぱさしますねぇ」
喉渇きませんかと首をかしげる侍従に脱力し、額に手を当てて歩き出す。町は人であふれていてはぐれないようにするのが大変だ。
「あぁもう、お前は祭を楽しみにきたのか?」
「そんなことありません! 素晴らしい偶然に感謝しているんです! まさかアドルンドのフォルの豊穣祭に参加できるだなんて! パースウィル様、ご存知ですか? この辺り一帯畑が多いので、フォルの豊穣祭は大々的に行われるんですよ! いやー……さすがアリドル三大祭りと謳われるだけありますねぇ……」
「……ずいぶんと詳しいな」
「そりゃぁもう! しかしこの戦争の最中で祭を行ってくれるだなんて、いやぁ本当に素晴らしい偶然に感謝です!」
「つまり、お前はあわよくばフォルの祭を見たいと思ってた訳だな」
「そ、それは……ホラ! 有名だということはですよ! わが国も学ぶべき所があるといいますか、なんといいますか……」
いつの間に入手したのか、侍従が水袋を二つ手に持っていた。
その手早さにひとつため息を吐いて、立ち止まる。
「……もういい。お前、そこまで言うならこの祭を偵察してこい」
「え!! よろしいんでございますか!?」
「あぁ。――俺は来るときにあった林で休む」
そう告げて踵を返すと、ぐいと腕を引っ張られる。眉根を寄せて振り返ると、侍従が険しい顔をしていた。
「それは危険です。祭となりますと浮かれた輩や犯罪者が増えます」
「――心配するな。休むというよりも、静かな場所で考え事をしたいんだ。正直に言えば、一人になりたい」
「……わかりました。私の指輪はお持ちですよね? ぐるりと回りましたらばお迎えにあがります」
「あぁ」
侍従の手がするりと抜け、水袋を一つ押し付けられた。パーシーはそれを掴むと人垣を縫うように歩き出した。