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気がつけば、王都を出立して一週間が経とうとしていた。
何度も馬車に突き上げられたために出来た尻の鬱血は、三日も我慢すると座れない程に酷くなっていた。
意味のない意地を張り続けて怪我をこさえて。馬鹿みたいだと鼻で笑ったら意固地になっていること事態がばからしくてどうでもよくなった。
ルカとは、馬車に移ってから一度も顔を合わせていない。
一方的に気まずい気分になり、ぎこちなく接していたら、誰かを経由して有希に伝えられるようになった。
ルカと唯一会話をしたのも、能力の事について誰にも言わないで欲しいと伝えた時だけだ。何をどう捕らえたのか、そうだなと言って頷いていた。
それから有希は自分だけに宛がわれた馬車の寝台で寝て過ごした。
何もかもから逃げたかった。何も考えたくなかった。ただただ逃避していたかった。
幾日か経つと、尻の痛みはもう無くなっていた。けれど心だけはじくじくと痛んでいた。
本当は自分のためだけに馬車が宛がわれるような、そんな身分でもないのに。
何もかもを否定的に捕らえてしまう、そんな自分も大嫌いだった。
その日は、昼を過ぎる頃から動くことがなかった。
町にでも着いて補給をしているのだろうか。時折にぎやかな声が聞こえてくる。
有希はだらだらと寝台に寝そべり、窓から見える空だけを眺めていた。
馬車に乗っている間、ずっと空を眺めていた。
ガラガラと引かれる音とやわらかいクッション越しに伝わる衝動。そんな惰性にくるまれながらゆったりとした速度で流れる雲や視界の端に見える木々が移りゆくのをずっと眺めていた。眺めているだけで、勝手に時間が流れてくれていた。
そんな日に限って、雲ひとつない秋晴れだった。変わり映えのない景色、空の青。
有希は完全に暇をもてあましていた。
昼食を終え、長椅子に寝そべってとろとろとまどろみ始めていた。
「ユーキ様、あの……」
入り口の扉がコツコツと叩かれて、次いで開いた扉から、メイが顔だけ覗かせる。
「……ん、なに……?」
昼寝の入り口に入り込んでいたので、突然心地よいまどろみから引き上げられて眉根を寄せる。
メイは少しだけ声を潜めておずおずと言う。
「あの、ルカート様がお見えになっております」
「えっ」
眠さで温まっていた身体が一気にさめる。
上半身だけ起こす。メイが後ろを振り返ったかと思うと小さく声をあげる。退いて扉が閉まる。そして再び扉が開く。
「調子はどうだ」
「……うん……大丈夫」
まっすぐに見つめてくる青い瞳から逃げるように目を伏せる。
あまりにもあからさまな行動に、沈黙が訪れる。
「……今、フォルに居る。明日、豊穣の祭が行われるのでそれが終わるまで逗留しなければならない。出立は明後日になる」
フォル。その町にしばらく滞在していたのに、今はもう酷く遠い日のような気がする。
「――そう」
目を伏せたまま、返事を返す。フォルに一日二日居ようが、有希には何の関係もない。ずっと馬車で過ごすのだから。
また沈黙が訪れる。
しばらくして、ルカがため息を吐き出す音が聞こえる。
「一体何を拗ねているんだ」
吐き捨てるように言われる。
「す、拗ねてなんかないわよ!」
ねめつけるようにルカに目を剥く。
「では何が気に食わないんだ」
射すくめるような目でルカは有希を見つめている。そんな目で見られると、有希はどうしようもなくなる。
逃げることもできない。ただただその瞳に見入られて竦んでしまう。
「…………」
どう言えばいいというのだ。自分の存在価値がわからなくなった。ルカも自分を必要としていない。自身もルカをいいように扱っていた事に気づいてしまった。自分が大嫌いになって、与えられた待遇も状況もそぐわなく思って、どうしたらいいのかわからないと、正直にそう言えばいいのだろうか。
それは、あまりにも身勝手な言い分だ。
「べ、別に……ルカには関係ない! それより、何しにきたの? 忙しいんでしょ?」
目線を下に逸らして、ルカの顔を見ないように言う。またため息を吐かれた。稚拙な行動に呆れられてしまっただろうか。
「……兵がフォル城でユーキが来ていることを零したそうだ。そうしたら城の者に広まり町の者にも知られてな。是非祭の前説をして欲しいと兵達からの要請があった」
「……え」
「フォルをお前が救ったから、戦渦の中に居ながら祭を執り行なえると言っている」
「あたしが、救った?」
(なんで、そんな誇大評価……)
自分は何もしていない。何かを与えていたかもしれないが、もう今は出来ないことなのだ。
(あたしのチカラは、もうないのに……)
「……フォルを治めている、いや、治めていた俺からも乞おう。――出てくれるな?」
「…………」
そんな自身が、何の価値もない自分が、そのような事をしてもいいのだろうか。
ちらりとルカを盗み見る。ほの暗い馬車の中でさえ、青色の瞳が海面のようにきらめいている。
(拒否する資格すら、今のあたしは持ってないよね)
自嘲するように笑んで、あたしで良ければ。とつぶやいた。




