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心のもやもやした部分はすっきりしたが、ひどく自分が醜いものになってしまったような気がした。
自己嫌悪で消えてしまいたくて消えてしまいたくて。
「――ユーキ?」
「!?」
いつの間にかうとうとしていたらしく、顔を上げるとそこには少し困ったような顔でのぞき込むアインが居た。
「大丈夫ですか? 荷馬車になんか乗って、酔ったりぶつけたりしていませんか?」
「だいじょうぶ……」
胸がきりきりと痛む。普段なら優しい気遣いが嬉しいと思うのに、今は一人きりで居たいから、感情が何も動かない。
「お尻の下に敷くものとか、持って来ましょうか?」
「いらない……」
「えぇと……あぁそうだ! 暖かい飲み物でも持ってきましょうか?」
「……いい」
「そうですか……じゃぁ、」
「なにもいらない。――ごめんなさい、気を遣ってもらってるのに」
「いえ……」
アインの気遣いが心にしみて痛い。自分はそんな気遣ってもらえるような人間じゃない。そんな優しくする価値なんてないのにと、自嘲で笑顔が歪む。
「あの人なら良かったのに」
「え? なんですか?」
思わず口からその言葉が零れていたらしく、アインが首を傾げて有希を見る。アインの黒い瞳はまっすぐ有希を見つめている。
「……シエ、レーベント……。アインさん、シエ・レーベントって人、知ってる?」
アインはニ三度瞬きをして、そして頷く。
「シエ姉様ですか? 僕の姉ですが……ユーキ、シエ姉様の事知ってるんですか?」
「うん……ルカに会う前に、ルカの部屋で…………」
「ルカ様の部屋に!?」
アインが目を見開く。しばらくすると、ため息とともにがっくりと肩を落とした。
「はぁ……まったく、シエ姉様はルカ様が絡むと本当に無茶苦茶ばかりやるんですから……」
「ね、ねぇアインさん。――そのシエ、さんとルカってどういう関係なの?」
自身をルカの主だとのたまった美女は、一体何を考えているのだろう。
ラッドに話し掛けていた内容からすると、ルカの部屋に入る算段の中にシエが絡んでいたのは必至だろう。
「シエ姉様とルカ様の関係ですか? 婚約者同士ですけれど」
「…………こん、やく?」
「あぁそうか、ユーキは知らないんですよね。シエ姉様はルカ様の御正妃候補なんですよ。代々レーベント家の娘は王家の方の正室か側室になる習わしなんですけれども、ホラ、シエ姉様ってルカ様よりも年上じゃないですか、だから候補から外れてたのですが、シエ姉様がどうしてもと言って聞かなくて半ば強引に取り決まって……」
アインが何かつらつらと説明をしているが、有希の耳には何も入ってこなかった。
(…………婚約)
婚約者がいる。そんなこと、考えたことも無かった。
(でも、そうだよね、ルカは王子で……正室とか側室とかそういうの、居るのがきっと普通で……)
ふと考えてみれば、自分はルカのことを本当に何も知らない。年齢も、今までどんなことをしてきていたのかも、どんな人なのかも、何も、なにも、なにも。
(最悪だ。ルカが庇護してくれることに甘えて。あたし、何もしようとしていない)
また自己嫌悪で消え入りたくなる。
「――なんですよ。……ってユーキ、なんだか顔色悪いですよ。大丈夫ですか?」
ぬぅっと手が伸びてくる。
その瞬間、胸がズキンと痛むと共に、嫌な光景がフラッシュバックする。
いつかの町で男達に襲われた。いつかの場所で、必至にもがいてもその手に掴まれて組み伏せられた。
どんなに抵抗しても、抗うことの出来ない、圧倒的な力量の、差。
「っいや!」
「――っ!?」
バチンと音が鳴り、はっと気づいて顔を上げると、驚いた表情でアインが立っていた。
どうやらアインが差し伸べてくれた手を、有希が叩き落したようだ。
爪が皮膚を削ったようで、手の甲にうっすらと赤い筋が浮き出していた。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
慌ててアインの手に手を伸ばす。
「いえ! 僕こそ、配慮が足りなくてすみません」
「手、大丈夫ですか?」
アインの手を取る。赤い筋からうっすらと血が滲んでいる。
「本当に……ごめんなさい」
治さなければ。目を瞑ってアインの傷に集中する。
「…………」
「…………」
「………………ユーキ? このくらいの傷、たいしたこと無いんで気にしないで下さい」
良くなりますように。そう願ってゆっくりと目を開く。
「え? ――――――――嘘」
そこには、相変わらず赤い紐のような傷があるだけだった。
「ねぇ、ヴィーゴ」
目の前の白衣が揺れる。日は高く上り、馬は前へ前へと進む。
黄色くなった葉が、日差しに憂いを与えている。
「――なんだ」
「……昨日ユーキちゃんを見かけたんだけど、心なしか元気がなさそうなのよねぇ」
セレナ達はあれから、容易く有希と接触することが出来なくなってしまった。
アドルンド兵とリビドム兵の間には溝がある。ましてやルカは王子だ。アドルンド王子相手に何か思うところあるリビドムが行動を起こすのではないかと警戒され、容易にづくことができない。
そして有希はルカの契約者であり主人である。ルカと同様に、軽軽しく近づけなくなってしまった。
「一人だけ荷馬車に乗ってるんだ、何か思うことでもあっての行動だろう」
「それも気になるのよねぇ……。はぁ、私の馬に乗せてあげられれば、気晴らしにでもなるのかもしれないのに」
これみよがしにため息を吐く。
「提案してみたらどうだ?」
投げやりな返答が返って来る。
「そんなことできるわけないじゃない! ……今更、どんな顔して会えばいいのかわからないわ」
久しぶりに会ったあの時。小さな小さな姿を見たとき。あの時は勢いに任せてしまった。
冷静になってみると、自分たちはあの小さな女の子に酷いことを強いてきていた。
彼女の能力が未知数なのにも関わらず体調を崩すまで――命の危険に晒されるまで酷使させていた。その能力の有無を少女には伝えないままに。
「ユーキちゃん、怒ってないかしら……いや、怒ったりしないでしょうね」
大丈夫そうではないのに、何かにつけて「大丈夫」と口癖のように言い、気丈に振舞っていた。きっと彼女は気を遣ってぎこちない笑顔で笑うだろう。
「むしろ怒ったりしないほうが問題、か」
脳裏に昨日の有希の姿が浮かぶ。何があっても一生懸命笑顔を浮かべようとしていたあのいじらしい姿はそこにはなく、ただ能面を顔に貼り付けたような少女が、無表情に食事を摂っていた。
(何があったのかしら……)
少なくとも、有希と共に過ごしていた数ヶ月の間、あのような姿は見たことがなかった。茫洋とした瞳は何を映すでもなく、紫水晶がそこにあるばかりだった。
「やっぱり心配よ……だって、私達リフェノーティスからユーキちゃんを預かってきたのよ? ユーキちゃんと接する機会くらい与えてくれてもいいものだと思うけど」
「預かった理由が王子に会わせる為だったろう。王子と再会を果たせた後じゃ、俺たちは御役御免だろうに」
「そ、そうかもしれないけど! なんていうの!? 最後まで見届ける義務っていうのがあると思うの!」
「何の義務だ」
「~~~~っ」
言葉に詰まる。自分でも無理を言っていることはわかっていた。
「今は無理かもしれんが、リビドムに着けば話せる機会が出来るだろう。それまでに気持ちの整理をするべきだ。お前も――俺も」
「……ヴィーゴ…………」
目の前の白衣がたゆたっている。髭面の男は振り返ることはない。だがそれは、彼自身もセレナと同様の感情をもてあましているのだということが長年の経験でわかった。
「…………でも本当に、心配だわ」
時間が経てば会える事がわかっている。けれども、彼女のあの無機質な顔が心配でならない。
「こういうとき、あなたならどうするかしら? リディー」
空を仰いで問いかける。
茶色の葉が茂る森はかさかさと音を立て、まるで返事を貰えないセレナを慰めているようだった。