幸せだけど、タノシクナイ
「幸せだけど、楽しくない」
あなたはこの言葉に矛盾を感じますか?
うーん…普通に考えたら、「幸せ」も「楽しい」もプラスの要素。それがイコールでつながらないのは確かに矛盾を感じる。
「幸せじゃないけど、楽しい」
それではあなたはこの言葉に矛盾を感じますか?
ちょっと待って、さっきの言葉と同じような意味じゃないの?
違いますよ。
あなたには分かるでしょう?
「ママーッ」
気づけば、床に座ってソファにもたれるようにして寝ていた。少しでも早く起きて自分の時間を確保しようとしていたのに、二度寝してるんじゃな…。私は寝室で寝ぼけて泣いている我が子の元に向かう。通り過ぎる目に映る、今日のカレンダーの日付は赤い。
朝がまた来た。毎日、少し否定的にそう思う。たまに訪れる赤い日付も関係なく。
まださくちゃんが起きるには早いな…。そう思い、寝ぐずる我が子のお腹をポンポン優しくたたいてなだめる。我が子の隣では、大きな体の男が何事もないように背を向けて寝息を立てている。
結局借りてきた映画観れなかったな…。洗濯物を室内のバーに干してからベランダに移動させようとすると、「ママー」と今度はすっきり起きた声と大きめのスリーパーを身にまといお相撲さんの着物姿のようになっている我が子が。
「さくちゃん、おはよう」私がにっこりすると、我が子もにっこり。駆けて来て私の腕の中に飛び込む。毎朝、感動の再会ごっこ。これが「幸せ」。
三十分後に大きな体が起きてきた。「おはよー。朔也もおはよう」彼は朝食の食パンを食べている我が子の額にキスをした。「ごめん、今日俺フットサルだから、もう行くね」彼は私の顔を見ることなく謝りながら準備をしに行った。
「うん、分かった」「べ~…」「あれ、さくちゃんっ…。またリンゴ飲み込めなかった?」取り出す幼児用ウェットティッシュを消費する日々。
「さくちゃん、公園行こうか」
陽気に誘われて公園に行くのではない。陽気を最大限に生かして我が子の体力消費を図るのだ。
公園では小さい女の子と父親と見られる男性がいた。休日はママ友出現率がグンと減り、父親や祖母、祖父などの出番が増えるようだ。女の子の父親はシャボン玉を吹いていた。我が子はベビーカーから降りるなり、そのシャボン玉めがけて駆けてゆく。
「すみません。」私が申し訳なさそうに微笑んで言うと、その方は軽い微笑みで会釈した。
柔らかい日差しとシャボン玉とたわむれる我が子。これも「幸せ」。
帰宅して昼食の準備。テーブルに並べて、椅子に座らせる。相変わらずの好き嫌い発動だ。心の中で思う。「あともうひと踏ん張り」
午前中に公園でよく動いた我が子、カーペットの上でお昼寝を始める。私はそっとお昼寝用布団に移動させた。そういう一連の流れに休日はほぼない。
TVのボリュームは我が子の眠りを妨げない程度に。カーテンからは午後の光が燦々と注ぐ。私の思考は一時停止している。
携帯電話が鳴った。現実がまたグンと現れた。
「あ、どうしたの?」
妹からだ。
「お姉ちゃん、今度の連休実家に帰ってくる?」
「帰れないよ、お盆までは」
「なーんだ、やっぱそうか。庭でBBQしようと思ってさ。私の彼氏込みで」
独身社会人を満喫している声色。
「うーん、残念。来年こそはうまいこと、帰れる距離に転勤になったらいいんだけどね…。あ、そうだ、お母さんに煎餅届いたって言っておいて。ありがとうって」
「あー、うん」
「さくちゃんがお昼寝中に、煎餅食べてドラマ見ることだけが癒しだからねー」
「何それ、終わってるじゃん」
遠くで笑っている妹の声がする。私は今一人、閉じ込められた陽だまりの箱の中にいる。
私はもう終わってしまったのだろうか。
分かってたんですよね?「幸せだけど、楽しくない」、という感覚が。
ええ…。
それでは「幸せじゃないけど、楽しい」は?
それも私でしょ?
そうです。
昔の私…。社会人だった頃の私…。
そうです。楽しかったですか?
ええ…、辛かったこともすごく多かったはずなのに、思い出すのは楽しかったこと。今にはない、楽しかったこと。
でも、幸せじゃなかったんですか?
そうね…、何が幸せじゃないのか難しいけど、今と比べれば…心穏やかな日々はなかった。好きだった人は確実に私に興味もなく、会社のノルマ地獄で肌は荒れる一方。
でも、楽しかったですか?
…ね、楽しかった。
戻りたいですか?
…戻りたい。
今日とは違う、朝が欲しい。
目を開けると、薄明るい闇がカーテンの隙間から覗いていた。知らない部屋。早朝かな…。周りには雑魚寝する…同期だ。え、若手の先輩もいる。あれ、私は…。
「おはよう」
部屋の入り口には、憧れていた若手の先輩が立っていた。
「丘野さん…。起きるの早いですね…」
「俺ん家なのに、俺が一番寝つけなかったよ」
そうだ…、昨日みんなと飲んで、みんなと丘野さん家押しかけて…、楽しかった…。
「コーヒー飲む?」
「はいっ」
コーヒーメーカーがこぽこぽと音を立てる。
みんなのために電気をつけずにいる丘野さんの横顔が、窓からの淡い光に縁どられる。
好きだ。一生言えないけど。
「なんか、学生みたいですね。雑魚寝なんて」
「ほんとだよ、社会人になってから初めてだよ」
「ふふ、私も」
手渡されたマグカップを口につけると、幸せの味がした。あれ、「幸せ」と「楽しい」って、共存できるの?でもそれって…何の話だっけ。
「昨日、楽しかったですね。面白くて。お腹抱えて笑って。自由で…」
「なんか気持ち込もってんな」
「はい…、なんでだろ」
どうして私はここにいるのだろう。
「丘野さんは…毎日楽しいですか」
「えー、何、急に。うーん…、でも、今は仕事に余裕もあるし、楽しい気持ちの方が多いかな。なんか最近みんなと遊んでばっかだし」
そう言って少し笑った。
「それじゃあ…、幸せですか?」
「ええ?…うん…、そう言っていいかもな」
目線の先。どうして私は何も思わなかったのだろう。この家が一人暮らしには広すぎることに。
コルクボードに、丘野さんとお腹の大きな可愛いらしい女の人の写真。
まばたきという機能が止まった。
「実家帰ってる時に、今日なんて女の子たちも泊めちゃったよ。最初で最後にしなきゃな」
私の動かない瞳に、発言の雰囲気に真剣な悪気がない一人の男性が映る。
「そっちは?」
「…え?」
「朔也だっけ?何歳になったの?」
世界が歪んだ。
「朔也…さくちゃん…。あれ…、私…、さくちゃんを…どうしたんだろ…、え、今日…」
目に入った、クマさん模様の日めくりカレンダーは月末を示していた。
いない、旦那が、毎月出張の日だ。
「昨日、言ってたよ」
「…なんて?」
「鍵閉めてきたから大丈夫だって」
自分の顔が歪んだ。
その家の玄関らしき出口を飛び出すのは、考えるより先だった。朝を迎える機能を停止したような灰色の空の下、タクシーのような塊に飛び込む。
ここはどこなのか。
私は、何をしてしまったのか。
目から脳に伝わらない道なき道を進み、タクシーのような塊はさくちゃんが待っているであろうアパートに着いた。飛び降りて部屋のドアへ、狂いそうな思いで体を。
お願い…お願い…お願いっ…
「…さくちゃんっ…」
我が子はいつものように大きなスリーパーをまとって寝ていた。仏様のような顔だ。寝室に立ち尽くして、息が再開される…。
「楽しかったですか?」
私の分身が私の隣で同じように我が子を見ている。
「こんなリスクのある『楽しい』はいらない…」
「あなたが望んだ『楽しい』ですよ?」
「私はずっと…人と自由に飲んで遊んで発散するばかりの人生だったから…。それ以外の『楽しい』を知らないの…」
笑いたくもないのに、虚しさが口角を少し上げる。
「主人とだって、そういう空間で出会った…。主人は今も同じような生活を続けている…。私は…この子を得ることができた代わりに、そういうのは犠牲にしなきゃいけないって…」
「ありきたりな提案をしていいですか?」
無言で首を振った。
「…私も頭の片隅で考えてた。仕事とか…趣味とか…」
「それです」
「そうよね…、今の私はとにかく何かを見つけなきゃいけない…。何か、何かを」
我が子から目線を少し上げた。
「少し前向きになっていただいたようなので、私から一つだけ呪文をプレゼントします。心苦しくなった時だけ唱えてください」
意識の奥底から動かされるように、私の目は隣にいる分身のマーブル状の瞳に吸い込まれる。
「ただし、新たな『楽しい』を見つけるまでですよ。長期間言い続けてしまうと、中毒になって…」
目の前にある瞳のマーブルが蟻地獄のように。
「死んじゃいますよ、心が」
「さくちゃん、電車来るよ」
今日もお日様がぽかぽかしている。僕とママは、手をつないで線路沿いの歩道で電車が来るのを待っていた。
…ガタンゴトンガタンゴトン
こっちに近づく電車の音が大きくなってくると、いつも僕の耳にママの小さな言葉が聞こえる。
「…しあわせ」
ガタンゴトンガタンゴトン
「…ケド、しあわせ」
ガタンゴトンガタンゴトン
タノシクナイケド、しあわせ
タノシクナイケド、しあわせ
タノシクナイケド、しあわせ