五十八話 対フレッシュゴーレム
何度目かの移動を終えて、真琴は汗ばむ額を制服の袖で拭った。
「ハンカチを用意していないのですか?」
「男ってのは、わりと適当なもので」
嘆息を一つ。いかに不死身に近い身体であろうとも、体力は人並みだ。
怪我人と重症の子狐を庇いながら、音を立てないように移動するのは神経を使う。
「助けは……まだ来そうにないか」
霊視をこらせば、ここへと向かってくる複数の人影。
辿りつくまでは二分といったところか。
肉眼をこらせば、向きを変えているフレッシュゴーレムの姿。
偶然か必然か、まっすぐに真琴たちの方へと向かってくる。
「んー石程度だと動かないしな」
どのように判別しているかは真琴には理解出来ないが、フレッシュゴーレムは明確に足音だけを聞き分ける。
いかに鈍重な歩みをみせるフレッシュゴーレムであっても、二分と待たずに真琴たちのもとへ辿りつくのは自明。
逃げるには少々と体力がキツイ。
ならば、真琴がなすことはただ一つである。
「雪村さん……?」
突然に立ち上がった真琴を、巴は訝しげに見上げる。
自分たちを置いて逃げる、などとは思いもしない。そうするならな、はじめからここに来なければいいのだ。
真琴は危険があると知りながらも、自らこの場に足を踏み入れた。
なら、動きを見せる以上は何かの手があってのことだと巴は思う。
事実、真琴は動く。
「とりあえず、二分。それだけは稼いでみるよ」
「はっ?」
疑問符を浮かべる巴に答えず、真琴は物陰から飛び出した。
フレッシュゴーレームは飛び出してきた真琴の足音を聞き、向きをそちらへと変える。
巨躯であった。
「にしても、どうしようかね」
『ボクが出て戦うのは?』
「ありだけど、今回はお休み。倒しきる必要はないからね」
それでなくとも、頼り切りになってしまうのはどうかと真琴は思うがゆえにだ。
雷花の不満げな声を聞き流し、真琴は構えを取る。
半身。
左手は前に、右手は腰に。
「ふぅ」
呼気を吐いて、目線を鋭くする。
――倒す必要はない。
改めて、意識に定める。
いよいよ彼我の距離は目と鼻の先。
腐臭が真琴の鼻を突き刺す。
眉をひそめながらも、真琴は見逃さなかった。
振るわれたのは右の腕。上段から、叩きつけるようにだ。
「――っ」
踏み込み、真琴は腕と懐の間に潜り込む。
腐肉がばらまかれ、散る。
本来ならば、真琴の攻撃だけが届く間合い。しかし、それはできない。
思い出すのは、先立ってフレッシュゴーレムの腕を受け止めた瞬間。
焼けつく痛みは、肉を食い破られたものだ。
真琴は痛みに対する抵抗力は、人よりも強い。
全身を砕かれたこともある。
全身を走る封印術の帯は、皮膚と癒着するまでに熱された。
だが、生きたままに食われた経験はない。
あろうはずがない。
フレッシュゴーレムの攻撃。それは、痛みよりも、なによりも、まず嫌悪感が先立つ。
身震いし、真琴は踏みしめた右足を軸に回し蹴りを放つ。
靴裏。
直接の打撃ではなく、わずかとはいえ異物をはさんでのそれは、はたして効果はあった。
フレッシュゴーレムがよろめく。
ダメージと呼べるほどのものではないだろうが、ここに来て初めて攻撃が通ったことに真琴は少し気分を高揚とさせた。
「とと、調子に乗らない」
追い打ちをと考えた頭を振って、真琴は少しだけ距離を開ける。
フレッシュゴーレムに知能はない。反射にて行動を起こすだけだ。
単調に繰り返される攻撃を、真琴は十分に距離をとって回避する。
攻撃のたびに、腐肉が撒かれて散乱していく。
「ひどい匂いだ」
腰を曲げ、前かがみに姿勢を落として、真琴はフレッシュゴーレムの挙動を見やる。
再び振り上げられた腕は、こ度は二対。
両の腕が一斉に振り抜かれた。
今度は前でなく、後ろに足を一歩ひく。
鼻先をかすめる風が起こった。
コンクリートの地面に叩きつけられた肉腕は、ひしゃげて崩れ落ちる。
『んー……このまま逃げてれば、削れて行く気が』
「どうも、そう上手くは行かないみたいだよ」
削り落ちた肉のうち、巨大なものは蠢いてフレッシュゴーレムへと舞い戻る。
再生とは違う。復元と言う言葉が、的確か。
「それに」
言葉を区切り、真琴は大きく後ろに飛び退く。
背後は壁。逃げるには不適切な場だ。
「俺が戦う必要は、これで終わりだ」
フレッシュゴーレムと真琴の間に、相川が降り立った。
「で、あれが諸悪の根源か」
「はい。それと、坂崎さんとここにいた子狐の妖怪が怪我してます」
相川は背中越しに真琴と会話する。まるで、数分前の俺みたいだと真琴はうっすらと笑った。
「ひどい匂いだな。腐肉の集まり……フレッシュゴーレムというやつか」
「さっすが先生、知ってるんですか」
「名前だけな」
相川とフレッシュゴーレムの距離は三メートルと少し。
間合いとしては、フレッシュゴーレムのものだ。
「救助は……まぁ、これを倒してからでいいな」
「でも先生、こいつは雷を落としても平然としてるようなやつですが」
「おいおい雪村。お前は俺を誰だと思ってる」
肩をすくめて、相川は苦笑を伴なう声音で言う。
「大守学園霊能科の教師だぜ」
言って、相川は両の手に炎を走らせた。
おおよそ、戦闘と呼べる行為は発生しなかった。
真琴の目にはただ、サンドバックを殴るボクサーのようにしか映らなかったのだ。
「すごい」
真琴は、相川の戦い方に見入る。
炎を纏う拳。
純粋な熱量と言う意味で言えば、それは沙耶のほうが遥かに上回る。
しかし、
「ふんっ!」
踏み込みの体重移動とともに放たれる拳は、肉を焼きながら抉る。
一打、一打が必殺だ。
肉がこげ、腐臭の充満していた地下に別の匂いが発生する。
焼ける匂い。
けして食欲をそそる物ではない。
拳の乱打は続く。
肉を焼き、
肉を穿ち、
肉を燃し、
肉を削り、
――フレッシュゴーレムを滅ぼす。
「術と、拳」
相川の戦い方に身入りながらも、真琴は自身の手を見た。
封印術を纏う手。
理力、霊力の少ない真琴には同じことはできない。
「……っ」
我知らずと、真琴は唇をかみしめた。
無力だと。




