五十三話 試験開始
ようやくパソコンが直ったので投稿を再開します。
大変お待たせしてしまって申し訳ありませんでした。
秀樹を先頭にして、三人は病院の入り口をくぐった。
まず三人が感じたのは熱気。まるで炎のそばに立っているかのように感じられるほどのそれは、まるで当時の火災を再現したかのようだ。
が、それはほんの一瞬。もっとも問題なのは視線だ。
目。目がすぐそばにあるのではないかと錯覚を起こしてしまうほどに濃密な視線の数々。その数は十や二十、などの数えられる範疇にない。
ただただ、視線だけが彼らの動きを追い続ける。
それを意に介さず、というよりはただ見られているだけという状況では手を出すことすらできずに彼らはまっすぐに歩みを進めた。 数歩。わずかに数歩だが、三人の足取りは最初にここへ踏み込む前とは違って明らかに軽い。
それもそうだろう。緊張の原因であった幽霊はただ視線を向けてくるだけ。襲い掛かってくる気配はおろか、敵意すら感じないそれにおびえ続けるのは無理というものだ。
「あっ、これって地図じゃない?」
「うっわ、ほとんど読めないなこれじゃあ」
きょろきょろと視線をさまよわせていた恵子の指差した先にあったのは、半ば焼け焦げた院内の案内図だった。熱気で溶かされたか、じかに炎に炙られたかは不明だが何が書かれていたのかを正確に読み取ることはできそうにない。
「どうする? 一応、目的地は二階の院長室と一階の救急治療室なわけだけど」
真琴はロビーからすぐそばに見える階段を指差しながら秀樹と恵子に問いかける。
目的地、。つまり、霊の目撃情報の多い二箇所に向かうのが今回の試験内容だ。
一階の手術室は主に救急外来用として使われていた。事故や急病人など、迅速に手術を行う必要のある患者はまずそこに運ばれる。 手遅れであろうと、そうでなかろうとも、だ。
必然として、死者の数が多くなるのもこの緊急外来用の手術室。
次の目的地が院長室だ。
ここは死者の数、という意味で言えばただ一人。その部屋の持ち主でもあり、この病院の院長でもある大楠正敏だけ。
そして、この大楠総合病院が焼け落ちた火事の原因もこの部屋だ。
調べた結果わかったことだが、院大楠正敏は自分自身の手で院長室に火を放った。
動機、その他はいまだに不明。ただ、結果としてこの病院が焼け落ちたという事実だけ今まで残されているのだ。
「私は、手術室を先にしたほうがいいと思う」
「そっちのがやばそうじゃね? だったら、楽そうな院長室が先のがいいと思うぜ」
秀樹と恵子の意見は割れた。詳しく聞けばなぜそちらを選ぶのかと答えてくれるだろうが、真琴は恵子の意見を押す。
「楽そうなほうを先って言うなら、俺は手術室を先にしたほうがいいと思う」
「へっ? 普通逆だろ、死者の数が多い手術室のほうがやばいんじゃないか?」
「いや、そっちは死んだ原因がはっきりしてるでしょ。怪我か、病気か。どちらにせよなんで死んだかもわかっているのだから、どういう幽霊が出るのかもある程度は予測できる」
でも、そう前置きして真琴は目線を階段――その奥にあるであろう院長室の方向を見た。
「院長はどうして室内に火を放ったんだ?」
考えもしなかったことだ。
なぜ、自室に火を放ったのか?
「それは、自殺…とか」
自分で言っていて自信がないのか、恵子はやや小声でそういった。
「焼身ってこと? ゼロではないけど可能性は低いと思う。自殺の方法だけなら苦しまずに死ぬ手段なんていくらでもあるよ。それに、ここは病院だ。それこそ睡眠薬でも毒薬でも簡単に手に入ると思う」
うがった見方だけどね。そういって欧米人がやるように肩をすくめる真琴。
「確かに、そう言われると気になるな……よし、一階から行こうぜ」
「そうね」
先導して歩く秀樹の後ろを、恵子は小走りについていく。真琴もその後をすぐに追うのだった。
目線は絶えず、彼らを見ている。
緊急手術室は、普通の手術室と違ってまずスペースを広く確保してある。これは複数の患者を相手にする必要性があるからだ。大楠総合病院の場合は、三台のベッドが並んでいた。
仕切りは扉ではなく緑色のカーテン。無菌状態を保つために、抗菌加工は施されているが、ゆらゆらと風もないのに揺れるさまはいっそうの不気味さを漂わせる。
「……雪村、何人いる?」
先頭の秀樹は、刀の柄に手をかけながら一番後ろを歩く真琴に問いかける。この中で、霊視に長けているのは彼なのだから当然の判断だ。
「正直、数えるのが面倒だけど……そうだね、危険そうなのは八人。事故死が四に、病死が三。手術の失敗が一ってところかな」
「失敗って、医療ミスってこと!」
恵子が声を荒らげる。廊下を反響し、ヤマビコのように何度か真琴たちの耳に届いた。
「――それについては、ここで追求してもしょうがないだろ」
「それは、そうだけど……」
秀樹にたしなめられるも、恵子は納得がいかないのかやや渋い顔をしてカーテンの向こうを見る。
ゆらゆらと、カーテンはいまだにゆれている。
誘うように。
惑わすように。
「とにかく、開けるぞ」
背後を振り向き、秀樹は最後の意思確認のために声に出して二人に確認する。答えは無言だが、首を縦に振ることで返ってきた。
秀樹も一度、大きく息を吸う。入ってくる空気は新鮮とは程遠いホコリっぽいものだがそれでも彼の緊張をほぐすには十分だ。
大きな音を立てて、カーテンが開かれる。 赤い部屋。否、赤黒い部屋がそこにあった。
充満した匂いは先に秀樹が空気とともに取り込んだホコリの物ではない。濃密な腐臭、それか鼻先にボールが強く当たったときに感じるあの匂い。
つまり、血の香り。
「――っ」
息を呑み、秀樹は吐きそうになるのをグッとこらえた。
鮮血に染まった部屋。そこには何十人、あるいは何百人もの命がある。あった。
泣き叫ぶ子供がいた。
意識のない家族に声をかける家族がいた。
必死に心臓マッサージを繰り返す医者がいた。
吐血する患者を支える看護師がいた。
痛みを堪え、息子の命を助けてくれと叫ぶ父がいた。
苦しみ、もがく患者がいた。
患者が、医師が、看護師が、多くの人々がそこにいた。
誰もが必死に戦っている。
命を助けようと、助かろうと必死に。
戦場おも髣髴とさせる現場にあって、異質なのは八人。
取れた腕の代わりにするのか、近くにいた別の患者の腕を引っ張る者。
頭をつぶされ、それでも半端に意識を保った者。
臓腑を撒き散らし、自身を轢いた者への呪詛を撒き散らす者。
自分で転倒しておきながらも、ただただ誰かに、何かに悪態をつき続けるだけの者。
なぜ自分が死ななければならないのかと、延々と問い続ける者。
長い闘病の末に、その精神すらも歪んでしまった者。
たらい回しにされ、結果的に治療行為が遅れたせいで死にいたった者。
そうして、ただ一人の医師が犯した失敗により生を全うできずにいた者。
かの八人は、みなが以上だ。
仕方がないことであるとはいえ、彼らは中途半端に命を絶たれた。
その怨恨が、生への執着が彼らを悪霊へと変質させる。
八人は侵入者である秀樹たちを見る。
ギロリと、羨望と嫉妬と怨嗟をこめて。
正常な精神を持つものであれば、その視線に耐えられない。
全身に怖気が走り、本能が逃げ出すことを促すがきっと恐怖にかられた身体は思うように動かない。
逃げる事すら叶わない獲物は、ゆっくりと狩猟者たちに捕食される。それが自然界での掟。
されど、この場においての狩猟者は彼らにあらず。
まず動いたのは秀樹だ。
居合いの要領で刀を抜くと同時に、手近な一人に斬りかかる。
護神刀、金神。カナミから譲り受けた彼女の本体ともいえるこの刀は、名のとおり神を守るための刀。
この世に存在する、神に仇なす不浄に負けぬ至上の一振り。
音もなく、斬ったという手ごたえすら残さずに刀は空を凪ぐ。
返す刀が動く前に、前に出たのは恵子と真琴だ。
二人の武器は己が体躯。
黒く、長い帯が真琴の両方の拳を包む。
ボクシングのそれとは違うが、一息の間に二度、拳は対面にいた二人の幽霊を穿つ。
恵子の場合は真琴と違い足技を主体とする。
さながらムチのようにしなる足は、的確に相手の急所を捉えてダメージを蓄積させていく。
全員が次の行動に移る前に四人。すでに消滅、にはいたらないだろうが少なくともしばらくは動けない程度に魂魄を散らされた。
魂魄は幽霊の源、といってもいい。それが何なのかはいまだに解明されきっていないが、これにある程度のダメージを受けると幽霊は形を維持できなくなる。
残りは三。だが、勢いにのる彼らにとっては物の数に入らなかった。
――それすらも、視線は見ていた。