三十九話 神々の諍い(3)
むかし、一人の刀工が狂った。
腕は良かったが、なにぶん人付き合いが悪く、山間の小さな鍛冶場に粗末な小屋を立てて隠れ住むように住んでいた。
けれど彼の打った刀はいわゆる名刀であり、業物。
腕は確かで、けれど人の心をどこかに置き忘れた刀工。それが、この男だ。
とある日。彼の鍛冶場に一人の神子が訪れる。
魑魅魍魎、悪鬼の類を退治することを生業とする彼女は、旅の最中に折れてしまった霊刀の代わりを求めて男のところへとやってきた。
この出会いもまた、偶然。
そして、男にとっては始めての感情を覚えた相手。
むかし、一人の刀工が狂った。
中空にありながらも、金神の振るった兇刃はすさまじい速度と切れ味を誇った。
わずかな血の飛沫。斬られたのは、真琴の右肩。
風を切る音が二つ。
金属が擦れる音は一つ。
鍔迫り合い。
強引に身体を捻り、上体に遠心力を与えた金神が振り下ろされるはずであった沙耶の妖剣を弾く。
そこで始めて、右足が教室の床へと降りる。
タイミングを計ったかのように雷撃の符術。柊が放ったものだ。
左足が床を踏み鳴らし、弾かれるように金神の身体を一歩後ろへと移動させる。
わずかに通り過ぎた雷が窓ガラスを打ち砕き、その刹那の間に金神が動く。
再び左足。次は、回避のためでなく前へと動くために力を込めて、床を蹴る。
刀の構えは上段。右足は前に。
前へと倒れこむように体重を移動させ、振り下ろす。
そのわずかな挙動の間に斜線へと割り込んだのは、妖剣を横に構えた沙耶だ。
二度目の接触は、鍔迫り合いとはならずにぶつかり合うに留まる。
否。金神は、沙耶の行動を予測したかのようにその刀を振りぬいた。
耳に響く金属のこすれ合う音。
わずかに、金神は驚きを覚える。彼女の狙いでは、構えた剣ごと切り裂けるはずだったからだ。
返す刀で切り上げ、沙耶の妖剣を跳ね飛ばそうとする。
振り下ろす剣と、切り上げる刀。
火花が散る。音がする。
二度目の鍔迫り合い。今回に限り、両者の力は完全に拮抗した。
ゆえに、金神は弾かれるように後ろへと跳ぶ。敵が複数いる状態で、硬直する愚を犯す気は毛頭ないと言いたげにだ。
一分にも満たない攻防の末、ようやく訪れた静止の瞬間。
このときになって始めて、真琴はそこに立つ金神をカナミと同一の人物であると見止めた。
黒のカッターシャツに、赤いチェックのスカート。細いネクタイもまた赤く、腰には鉄鞘を帯びている。
手にするのは反りが一切ない直刀。刃渡りは、妖剣よりもわずかに短い。
「君は、何者だい?」
この中で、カナミとの面識が唯一ない柊が口を開く。気楽なそうな口調だが、その手には何枚かの符が握られている。
「金神」
短く、簡潔ながらもカナミははっきりと答えた。
「ふむ。やはりか………それで、真琴君。どうする?」
「どうしようかな」
少なくとも、反射的に動いた今回はともかく、理由もなしに命を賭す気はない。と言うのが、真琴の考えだ。
チラッと、背後に庇った静香を見る。
顔面蒼白と言うわけではないが、少なくとも真琴には怯えているようには見えた。
――どうしようかな、本当に。
「――邪魔しないなら、私はお前たちを狙わない」
真琴が悩んでいる理由は、自分が敵対しているからだと思ったのかカナミは、言い聞かせるようにそう言葉を発した。
「ふぅん」
その言葉を吟味するように、真琴は上を向く。沙耶はこの件は口出しする気はないのか、一言も発しない。
「なら――」
答える前に、真琴の携帯が着信を知らせた。
「雪村ッ!」
『叫ばなくっても聞こえてるよ。何?』
自分と違い、どこか余裕のありそうな声にひとまず秀樹は安堵のため息をもらした。
「その、いまどうなってる?」
『金神と水神のどちらにつくか、板ばさみ中だね』
「………」
どうするとは、真琴は言葉にしなかったがそう聞かれたように秀樹は思った。
喉をいつの間にかたまった唾液が通り、音を鳴らす。
足は面白いように震え、携帯を持つ手は今にもそれを離してしまいそうに力が入っていない。
怖い、と秀樹は思う。
カナミのあの眼。
無感情で、自分を障害としか見ていなかった氷のようにつめたい眼。
射抜かれたその瞳は、秀樹の心をたやすく凍てつかせ、恐怖の中に押し込めた。
混乱と、緊張と、恐怖でどうすればいいかの判断すらもつかない。
だから、震える口が発したのは問いかけ。誰かに答えを求める、彼の弱音。
「どうすれば、良い………ッ!」
『どうしたい? よく、考えてみなよ』
振り絞るように叫んだ思い。それに対する真琴の答えは、問い返しと思考しろと言う助言。
だから、秀樹は考える。
俺はどうしたい? カナミを助けたい。
なら、何故ここにいる? 怖いから。
何が? カナミが? 戦うことが? 痛みを負うことが? それとも、死ぬことが?
「――ああ、そっか」
つぶやく。相変わらず足は震えてて、手に力は入らない。
でも、秀樹はゆっくりと立ち上がる。
「雪村………怖いよな、戦うのって」
『そうだね』
「痛いのも、痛めつけるのも、怖い」
『うん』
一歩。壁に手をついて、恐る恐ると足を踏み出す。
秀樹は、理解した。何故、自分がこんなところで震えていたのか。
「覚悟なんて、してなかった。ただ、一緒にいられれば良かった」
思い出すのは、月夜を背にしたカナミの姿。
秀樹には、あの姿がとても綺麗なものに見えた。
当たり前だと、胸中で秀樹は自嘲する。
カナミには、覚悟があった。いや、使命とすら言ってもいい思いがある。
ただ、一つの目的のためにあるその姿は、秀樹にはとても眩しいものだ。
彼には何もない。
彼女がどうしてそう思ったのかも知らない。なぜ、水神を狙うのかも知らない。何時から戦っているのかも知らない。
何もかも、秀樹は知らない。
ただただ、側にいられることに満足していたから。
もう一歩。震えはいくらかマシになったが、それでもなお恐れは彼の胸の内にある。
「怖い。すげぇ、怖い――でも、このままじゃ側になんていられないんだろ?」
『だろうね』
返ってくる声は、少しだけ優しげに聞こえた。
――そういえば、こいつはもう乗り越えたんだよな。
同い年だ。同じクラスで、席も近い。
なのに、立っている位置は違いすぎる。
秀樹は外で、無様にも震える足を引きずって。
真琴は中で、金神と水神と二柱の神の真ん中に。
「ちくしょう――。お前、すごいよな。ほんと、むかつく位に」
『褒め言葉っ、てことにしておくよ』
笑いあう。
――大丈夫。俺にだって、できる。
「殺す覚悟も、殺される覚悟も俺にはない。だから、こんなこと言うのはきっと間違ってる」
でも、と胸中で付け足す。
「戦う覚悟は、する。神は愚か妖怪にも届かないけど、でも――戦う」
『死ぬかも知れないよ?』
「わかってる。だけど、俺はカナミの側にいたい。ここで側にいけないと、一生会えない気がするんだ。だから、頼む」
電話越しで姿は見えないが、秀樹は構うことなく頭を下げる。
「俺たちの戦いを、見届けてくれ!」
震えを吹き飛ばすように、大声で叫んだ。