三十三話 それぞれのインターバル
時刻は八時を過ぎたあたり。
雪村家の階段を登る、妙齢の女性がいた。年のころは、四十前後。色素の薄い髪を後ろで束ねて、ゴムで縛っている。
真琴の母、雪村真美だ。
真美は、何時まで経っても降りてこない息子たちを起こすために二階へとあがってきていた。
「おはよ、母さん」
「おはよう、真児。今日は随分とゆっくりね」
大きな欠伸をする長兄に、真美は挨拶を返して真琴の部屋の戸を叩く。
「ああ、二人ならいないよ」
「えっ?」
何気なく伝えられた真児の言葉に、真美は目を丸くする。
「昨日の夜は、確かにいたわよね?」
「日付が変わる前後くらいに出たみたいだよ」
窓からと真児は付け加えた。
真美は、眉間に皺を寄せてうなった。
「この時間にも連絡がないなら、まだ起きてないんじゃないかな?」
真児も、真美も二人のスキンシップが過剰なのは承知している。この時間に連絡がないのなら、そういうことなのだろうとも。ただ…
「まだ、お祖母ちゃんにはなりたくないのよね」
「俺も叔父さんはなぁ」
二人のため息は、図らずも同じタイミングで吐き出されたのだった。
一姫が目を覚ましたのは、正午を過ぎてからだった。
「たいした生命力です」
第一声がそれか、と一姫は胸中で思った。同時に、何故ここにとも。
一姫の側にいるのは、白衣を着た長身痩躯の男。年齢は彼女と同じ位か、少し上だろう。
アイロンをかけていないのか、皺だらけのワイシャツと適当に結んだネクタイは何処となくだらしない印象を受ける。
男の名は麻生。それ以上の名を名乗ろうとしないので、偽名の可能性が高い。
「食事はしばらくは無理ですね、食道が欠損してますので。栄養剤を点滴しておきますのでそれで我慢してください。水は、一気に飲まずに少しずつ口に含むように飲めば大丈夫ですが冷たいのはご法度です」
麻生は、ゆっくりと子供に言い聞かせるようにして一姫に伝える。
彼は、医療用の治癒術の研究費用を捻出するのを条件にマガミに協力している人間だ。
実のところ、医療用の治癒術――医療術は前世紀から進歩らしい進歩を見せていない。
医療術は対象の回復力を高めるなど基本的に体内に存在する細胞や、免疫力を強化することで快方へと向かわせる技術だ。
だが、ウィルスや内臓器の欠損はそうは行かない。
ウィルスの場合、下手に免疫力を強化すると死にいたるものも有る。代表的なものだと、アナフィラシキーショックだろうか。
内臓器の場合、外的要因ならば治癒は出来る。だが、ガン細胞などの切除を持って治癒とする場合は回復力を高めることは逆効果になる。
これらはほんの一例に過ぎない。それこそ、遺伝子レベルの病だって存在するのだ。そして、医療術が発展しないのには他にも理由がある。
まず、術者の霊力が持たない。加えて、術式を描ききれるものがいないのだ。
複雑な現象を霊力で再現しようとすれば、それだけ大量の術式というものが必要になる。
一刻を争う場で、数十時間もかかる術式を使うよりも絶えず状況を確認できる手術のほうが遥かに精度が高い。
だからこそ、医療術の研究はあまり盛んには行われていないのだ。そして、それを専門に行う麻生は相当の変わり者ということでもあるが。
「色々と聞きたいこともあるだろうけれど、今は身体を休めることです」
それだけ言って、麻生は一姫の元を立ち去る。目を覚ましたことや、経過をマガミに報告に行くためだ。
一姫は、麻生を見送ってから再び目を閉じる。
やはり身体が休養を求めているのか、数秒もしないうちに室内に寝息が聞こえ出した。
麻生の報告を聞いたマガミは、人知れずに安堵した。それは、子の無事を喜ぶ母のように見えた。
マガミの配下は多いが、彼女に絶対の忠誠を誓っているのは一姫だけと言う事実があるからかもしれない。そのあたりは、マガミが語らない以上は表に出ることはないのだが。
「聞いた通りだの」
「ん、それは良かった」
明朝、術式を身体に刻み終えた真琴は痛む背中を上にしてうつ伏せのまま答えた。
沙耶は隣で真琴の手を握ったまま眠りこけている。疲れているのか、かなり深く寝入っているようだ。
「して、術式の定着は終わったかの?」
「とりあえず痛みは引いてきた。たぶん、夕方ごろには慣れてると思う」
「ふむ」
その答えに、マガミはいくらかの驚きを覚えた。
――やはり過神の影響は強いようだの。
マガミの最初の計算では、一日以上は身体に馴染むまでかかると思っていた。だが、真琴は半日足らずでなれると答えた。
それは、過神が真琴の身体を強化しているからだとマガミは推測する。
――これならば、多少の無茶は聞くかもしれんの。
「では、夕食後に使い方を教えるとするかの」
真琴の急成長は、マガミにとっても脅威となりえるが首輪が機能しているうちは大丈夫だろうと彼女は判断した。
それに、一姫を傷つけた報復を行う必要もある。
「今は、休んでいるとよかろう」
それだけ言って、マガミは室内を後にした。まずは、情報を増やさねばと考えながら。
夕刻。茜色に染まった街中を、矢口秀樹とカナミは連れ添って歩いていた。
年齢の近い男女が並んで歩いているのに、初々しい雰囲気はなくどちらかと言えば剣呑なそれだ。
「……くそっ!」
悪態をついて、秀樹はどっかりと備え付けのベンチに腰掛ける。
秀樹は焦っていた。今日、学園の授業が始まる前に聞かされた一姫が行方不明だという情報と真琴の欠席。
一姫はわからないが、真琴には自分が協力を頼んで直後の欠席だ。沙耶がいるのだから大事には至っていないと思うが、それでも何かあったのではと勘繰っていた。
その勘繰りを拍車にさせているのは、校舎の一部が倒壊していたことだ。
修理してすぐなのだから、自然に壊れたとは子供だって思わないだろう。
「秀樹、とりあえず落ち着く」
隣に座り、カナミが秀樹の手を取って声をかける。すぐに効果が出るということはなかったが、少しずつ彼は落ち着きを取り戻した。
「――ありがとう、ちょっと落ち着いた」
最後に大きく深呼吸して、秀樹はカナミに答える。そして今更ながらにその手の柔らかさを感じて、少しだけどぎまぎしていた。
「別にいい」
大きく首を振って、カナミは手を離す。
そうして、二人の間になんとも言えない沈黙が訪れた。
元々、あまり話すほうでもないカナミは積極的に話題を提供するタイプではない。
しばらくの間、お互いに押し黙ったまま時は流れる。それを打ち破ったのは、カナミが有る一点を見つめたまま動かないことに秀樹が気づいた瞬間だった。
「クレープか………食べる?」
「ん」
うれしそうにうなずいて、カナミは真っ先にクレープやの屋台に向かっていく。秀樹も後に続こうとして、不意にカナミの首筋に目線が言った。
右の首筋。そこに、うっすらと見えた赤い線。
まるで、刃物で切ったみたいだなと秀樹はなんとなく思った。
前回、タイトルを付け忘れてた大ばか者です。
修正はしました。
しかし、本当に学園に行かない主人公ですね。