十一話 二時間目の沙耶
授業開始を告げる鐘がなる中、私はふらりと屋上へと上がってきた。
春の穏やかな陽気が、簡素な屋上を照らし出す。風も少ないし、こういう日は全力で大空を飛ぶっていうのも、気持ちいいかも。
ああ、その時は真琴を連れて行こう。二人っきりで大空を舞い上がり、音の壁を突破するついでに二人の距離感もググイッと急・接・近!
ふふふっ、今夜は素敵な夜になりそうね。ニヤニヤとにやけながら、
適当なベンチに腰をかける。
「…ふぅ、もう帰ろう」
チャイムが鳴って早一分、もう十分に待った。そもそも、私を呼び出しておいて待たせるという精神が気に食わない。
これが真琴だったら、私よりも先に来ていて飲み物の一つでも用意していることだろう。
「まったく、君はいつもそうやって自己中心的に振舞っているのかい? 真琴君の苦労が目に浮かぶよ」
重苦しい音のなる扉を開放して顔を出したのは、いけ好かない子鬼。伊吹柊だった。
「ふん。あんたにそんなこと言われる筋合いはないわよそもそも、何だって通信術なんていう回りくどい手段とってるのよ」
通信術は、簡単に言えばテーブルターニング。こっくりさんのことだ。
相手の持つペンや十円玉と、自分の思念を同調させて、こちらの意思を相手に文字として見えるように伝える方法。
私は子鬼のシャーペンに、子鬼は私が持つボールペンに思念を同調させていた。まぁ、私は暇つぶしが主な理由だったので落書きしながらだったけど。
「単純に、真琴君に知られたくなかったからさ。…まさかとは思うけど、僕と会うことを言ってないだろうね」
「それは大丈夫。相川に会うって行って抜けてきたから」
実際、屋上の鍵をもらう為に一度会っているのだから、嘘はついてない。
「…たしかに、問題ないみたいだね」
懐から取り出した符が、黄緑色に輝く。多分、真琴の居場所を探ったのかしら。
子鬼は、使い終わった符が燃える火で煙草に火をつけて一息、大きく吸い込んで吐き出す。
「禁煙したんじゃないの? てか煙いから離れてくれない。むしろ離れろ」
「別にしていないよ。本数は減らしたけどね」
携帯灰皿に吸殻を入れて、子鬼は真っ直ぐに私へと向き直る。
「厄介なことが起きている」
「へぇ」
脚を組みなおし、腕を組んで胸を張る。
生粋の妖怪である鬼、伊吹柊。その力は、少なくとも昨晩戦ったあの鎧武者…名前は、何だっけ? ――ともかく、あいつよりあると思う。
まぁ、私には到底及ばないのだけど。…あ、話がずれてる。
「具体的には? まさか去年みたいに姉と喧嘩したって言うんじゃないでしょうね」
あの喧嘩がきっかけで、子鬼と真琴は仲良くなったんだっけ。
まったく、余計なことしかしない兄弟だ。
「あれを喧嘩といえるのは、君だけだと思うけどね。
大丈夫。姉さんとは、あれから問題なくやっているよ」
「そう。なら、いいけど」
そういえば、あの小娘の真琴を見る眼が微妙に怪しかったわね。うん。機会を見て様子を見に行くとか言ってたけど、あれこれ理由をつけて阻止しよう。
「そろそろ本題に入るよ? 実は、何者かに襲撃を受けている」
苦虫をつぶした様な表情で、子鬼は四つに折りたたんだ紙切れを私に投げてよこした。
「何これ? 見たところ、誰かの名前のようだけど」
見覚えのある名前はない。大体は妖怪でしょうけどね。
「昨晩の警邏担当の妖怪達だ」
一息、子鬼は息を吐き出す。
「リストの全員から、連絡が途絶えた」
「そう」
再度、苦虫をつぶしたような表情を作る子鬼。子鬼も予測しているだろうけれど、このリストに載っている妖怪達はもう生きてはいないだろう。
「昨夜、大通りから君が飛び立つのを最後に連絡の途絶えた者がいるのだが、
何か知っているかい」
子鬼の眼光が、鋭く釣りあがる。嘘や誤魔化しは全て見抜く。そう言いたげに、真っ直ぐに私を睨みつける。
怖くはないのだけれど。疑われたままと言うのは私としても、気分が悪い。
「知らないわね」
「…嘘は言ってない様だね」
当たり前だ、失礼な奴め。
私を疑ったささやかな復讐に、子鬼の悪口でも吹聴しておこう。主に真琴へ。
「話はそれだけ?」
「ああ、伊吹の鬼としては以上だ」
どことなく、含みを持たせた言い方をして子鬼はリストと手帳を懐にしまった。
「此度の敵の規模、狙い、能力。その全てが不明だ。現状、こちらは後手に回るしかない」
不本意だが。そうつぶやいて、子鬼は煙草を口にくわえた。
「万が一の事態が起きないように動くつもりだが、
それでも僕の手が届く範囲は短い。しばらくの間、夜間は真琴君の護衛に勤めてくれ」
「何を今更」
私が真琴を守るのは当然だ。それは、真琴に使役された瞬間より――いや、二年前から変わることのない私の、私だけの誓約だ。
「なら、安心だね」
子鬼の場合、真琴に対する負い目か友情か判断はつかないが、少なくとも真琴を優先して守ろうとしているのは確かだ。
うん。その心意気に免じて、悪口を吹聴するのは真琴の周囲だけにしておいてやろう。
「それじゃあ、僕はやることがあるので先に戻るよ」
「はいはい。またね〜」
踵を返した子鬼に、適応に手を振って見送った私は、ゆっくりと空を仰ぎ見る。
授業が終わるまで、あと三十分はあるか。
「とりあえず、今晩の予定でも立ててようかな〜」
都心の町明かりを、地上の星とか言うのが真琴的にはヒットかな?
それとも、雲よりも高く飛び上がって星空へ近づく方がいいかな?
私だけが知っていた綺麗な景色、美味しい食べ物、心地のいい歌。
それら全てを、真琴と共有する楽しみ。
「さぁて、どうしようかな」
本当に、今晩が楽しみだ。
わくわくしながら戻ったら、真琴が甲殻類っぽい巫女と話しててイラッと来たのは私だけの秘密だが。