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全てを許して受け入れるために、この世界は真っ白なのでありました。

作者: 安部樽子


 そこにあったのはふわふわしたベッドでした。

 そのベッドから少女が起き上がると、周り一面、白い世界が広がっていたのです。

 それはまるで、大きな綿あめのように見えました。少女はわくわくして、とびっきりの笑顔になりました。

 そして気付きますと、自分のベッドのすぐ横に、もう一つベッドがありました。そしてそこには、自分より少し大きな少年が、横たわって眠っていました。

 少女は、少年を覚えていました。

「にぃに、にぃに!起きてよ!」

 少年は、少女の兄でした。少女の声によって、少年は目を覚まし、不思議そうにあたりを見渡しました。

「…ここはどこなの?」

 少年は怪訝そうな顔をしました。

「わからないよ、わからないから楽しいんじゃない!」

 少女は好奇心旺盛なようでした。

「そうかなあ、僕は、少し怖いよ」

「もう、意気地なし」

 ふくれっ面をして、少女は言いました。

 そんなことをしていると、向こうの方から、白い小さなボールのようなものの群れが、ぴょんぴょん跳ねてこちらへやってきます。

「うわああ、ボールだよ!」

 少女はボールの方へ走っていきました。

「ちょっと待って、危ないよ!」

 少年は声をあげましたが、少女は一向にこちらの声を聴きません。

 ふぅと一つため息をついて、少年は少女を追いかけました。

 少女はボールと一緒に、跳ねて、走って遊んでいます。

 ぴょんぴょんぴょんぴょん、コロコロコロコロ、少年はついていくのに精いっぱいでした。

「これは、何なんだろう」

 ボールをよく見ると、中にもう一回り小さな、黒いボールが入っているように見えました。

 ボールは、とても楽しそうに見えました。

 気が付くと、少年は足を止めていました。少し先に、大きな家が見えたからです。そしてそのドアの前には、白い服を着た男の人が立っていました。

 少女もそれに気が付き、足を止めました。そしてボールは、行ってしまいました。

「にぃに、あの家、行ってみようよ」

 向こうの男の人は、優しく笑っているように見えました。


「君たちはとても運がいいね、あの行列を見ることができたんだから」

 家の傍まで行くと、男の人が言いました。本当に真っ白な服を着ていました。肌もとても白く、青い目だけが、体からも、風景からも、浮いていました。

「行列、ってあのボールのこと?」

 少女は、無邪気な笑顔を見せて聞きました。

「はは、ボールか。それはいいね」

 楽しそうだ、そう言って男の人は笑いました。

「あの、あのボールはなんですか」

 少年は、少し怖がりながら聞きました。なんだか、聞いてはいけないことのような気がしました。

「ああ、あれはね、卵だよ。生まれることの出来なかった卵さ」

「たまご」

「そう、生まれて、生きて、死ぬはずだった卵だよ」

 男の人はそれだけ言って、口を閉じて笑いました。

「じゃあ、この家はなんですか」

 近づいてみると、遠くから見るよりいっそう、この家は大きかったのでした。大きくて、白いのでした。きっとたくさんの人が住んでいるのだろうと、少年は思いました。

「この家は、君たちの家でもあるんだ。そして、みんなの家でもある」

「僕たちの」

「そう、生まれられなくても、生きられなくても、死ねなくても、ここにはいられるよ」

「…なんだか、よくわかりません」

「わからなくて、いいんだ」

 男の人はまた笑いました。

「にぃに、遊びに行こうよー!」

 横で、少女が物欲しそうな顔をしていました。

「そうだ、行っておいで。きっと楽しい。そしてまた、ここに戻ってくるんだよ」

 そう言って、男の人はふっと消えてしまったのです。そのことを不思議に思わないように、少女はうきうきしていました。

「行こう、にぃに!」

 少女に手を引かれ、少年は走り出しました。


 しばらく走りますと、小さな丘の上につきました。そこの下には、これまた真っ白な雲の草原が広がっていました。

「白い白い!ここにあるものは綺麗な白ばっかりだね!」

 少女はそう言ってはしゃいでいますが、少年は、なんだか物足りないような気がしてならないのでした。

「らーららー、ららーらららー」

 草原を見ていると、後ろから綺麗な歌声が聞こえてきました。

「らーららー、ららーらららー」

 振り返ると、そこにいたのは白い犬でした。

「わあ、わんちゃん!」

 少女は嬉しそうに、白い犬に駆け寄りました。そして、一緒に歌いだしました。

「らーららー、ららーららー」

「らららー!」

 白い犬は高らかに、気持ちよさそうに歌っていました。

「あの、どうしてそんなに歌うんですか」

「どうしてって、好きだからさ」

「そうだよにぃに、歌うのは楽しいんだよ」

 少年も歌が好きだったような気がしていたのですが、どうも歌う気になれないのでした。

「…君たちは、ここにきてまだ間もないんだね」

「どうして、わかるんですか」

「だって、まだ白くないだろう?」

 見るとその通り、少年も少女も、少し汚れた黒い服に、青いジーンズをはいていました。

「ここにいるとね、色がどんどん白くなっていくんだ。見た目も、心も、真っ白になれるんだよ」

 少年は、自分と少女の肌の色を比べました。なんだか少女の方が白く見えました。

 少女はまだご機嫌で、歌を歌っています。

「君はきっと、白くなれない何かを、心に抱えているんだろう」

「何かって、なんですか」

 きっとその何かは、少女にはもうないのだろうと思いました。だからああやって楽しそうに、まるで全てを忘れたように、歌うことができるのだろうと思いました。

「さあ、何だろうね。まあ、きっとそのうち白くなれるさ。僕だって最初は黒かったんだから」

 白くなるのは幸せですか、そう聞こうとして、やめました。その質問は、きっとこの白い世界で、白ばかりの世界で、おかしなことだろうと思ったからです。

「僕が何故歌を歌うのが好きか、教えてあげようか」

 白い犬は、笑って少年に言いました。少年がうなづくと、白い犬は遠い目をして、話し始めました。

「僕はね、前にね、声を奪われてしまったんだ」

「声を?」

「ああ、ある時、ちくっと痛みが走ったと思ったら気を失って、起きたら声がなくなっていたんだ。いくつかの命が、よってたかって、僕の声を殺してしまったんだよ」

 恐ろしい話だと、少年は思いました。そのうえ、とてもとても悲しい話だと思いました。

「どうしてそんなことを」

「おとなしい僕が欲しかったのさ」

 白い犬はそう言って、また歌いました。その声は遠くまで響いて、白い草原を突き抜けるようでした。

「だから僕は歌うんだよ、ここでは、無くなった声とまた会えたから、うれしくてね」

 そう言う白い犬は、とても幸せそうな顔をしていました。

「…つらかったですか」

「もう忘れたさ」

 そんなに簡単に忘れられるものなのか、と少年は驚きました。

 白い犬と少女が、声高らかに、丘の向こうへ、歌声を運んでいました。一緒に歌えない自分がなんだか悲しくて、少年は泣きそうになりました。二つの声に合わせて、少年はらららと小さく、小さくつぶやきました。


 丘の上のとある端に、階段がありました。少年と少女は、ここから下の雲の草原に降りられるのではないかと思い、階段を下りることにしました。

 長い長い階段でした。そしてその途中に、広場がありました。そこもまた真っ白で、まぶしいくらいでした。

 その広場のちょうど真ん中に、黒い何かがうずくまっていました。その物体は、白い世界で、嫌に浮いていました。

「にぃに、あの黒いの、ウサギじゃない?」

 よく見ると、それは確かに黒いウサギでした。ウサギはこちらに背を向けていました。もう少し近寄ってみると、白いニンジンをもぐもぐもぐもぐ、ほおばっているのがわかりました。

「こんにちはウサギさん」

 少女が後ろからそう声をかけましたが、ウサギは食べることに夢中で、こちらを見ませんでした。

 少女は少しむっとして、正面に回り込んで、大声で言いました。

「こんにちは!!」

 ウサギは驚いて、食べるのを止めました。

「なんだ、びっくりした。お前ら、ニンゲンか」

 ウサギは少し警戒しているようでした。

「そうだよ!ニンジン、美味しいの?」

 少女は当たり前のように返事をしましたが、少年は、少し驚きました。

 そうだ、自分たちは人間だった。そのことを、すっかり忘れてしまっていた気がしました。

「うまいぞ。ここにはいくらでもあるんだよ、驚いたさ」

 貪るように、ウサギは白いニンジンを食べました。

「ひとつちょうだいよー!」

 少女がねだると、ウサギは渋って言いました。

「嫌だね、だってお前らはニンゲンだ。前には、俺に何もくれなかったじゃないか。そして俺は死んだんだ」

 その言葉を聞いて、少年は、このウサギもきっとまだここへ来たばかりなのだろうと納得しました。見た目も心も黒い、そしてこのウサギもいつか白くなるのだろうと思いました。

 少女はさびしそうな顔をしました。少年は少女の頭をなでました。

「人のものをとってはいけないよ」

 少年が言い聞かせるように言うと、少女は小さくうなづきました。

 そうしている間にも、ウサギはどんどんニンジンを食べていきます。そして少し、耳が灰色になってきました。

 そうやってきっと、白くなる。

 そして、この世界と一緒になるのだろうと、少年は思いました。

「…お前らもひどい目にあったのか」

 ウサギはニンジンをほおばりながら、目だけをこちらへ向けて言いました。

「ひどい目?」

「だってそうだろう、お前ら、アザだらけじゃないか」

 そういわれて自分たちの体を見ると、なるほど確かに、青いアザが見てとれました。

 どうしていままで気付かなかったのだろう、少年はそう思いました。まるで、思い出したくなかったようでした。

「ほんとだ、でもね、もう痛くないよ」

 少女は笑顔で言いました。

「そうか。…まあいい、一つぐらいニンジンをやろうじゃないか、うまいぞ」

 そう言ってウサギは、ニンジンを二つ、こちらへ投げました。

「わあ、ありがとう!」

 少女はニンジンをかじりました。白いニンジンはぽきっと音を立てて割れて、少女の口の中へ入っていきました。

 少年もニンジンをかじりました。どこか懐かしい味がしました。


 広場の奥にはまだ階段があって、下へと降りられるようでしたので、少年と少女は、まだ下ってみることにしました。

 階段の途中で、赤ん坊の人形を持った小さい男の子がいました。その男の子は口を堅く閉じて、まるで怒っているように見えました。

「こんにちは!」

 少女が声をかけると、男の子は人形を前に突き出しました。すると、人形が『こんにちは』と返事をしました。

「わあ、すごい!」

 少年は思いました。この男の子はしゃべれないのだと。

 男の子の服は既に白く、人形はほのかにピンク色をしていました。自分たちより長く、ここにいるようでした。

『この先は沼だよ』

「沼?」

『ああ、真っ黒さ。あれは見るもんじゃないね』

 男の子はそれだけ言って、階段を上って行ってしまいました。

「沼だって、にぃに」

「行きたくないかい?」

「うーん、行きたいかもしれない」

「そうか」

 じゃあ行こう、と二人は、また階段を下りて行きました。


 そこは確かに沼のように見えました。黒く濁っていました。

 沼を覗き込むように、見たことのない生物が泣いていました。そっと近寄ると、リスに似ていました。その体は、もうほとんど白く、しっぽだけが茶色でした。

「どうしたの?悲しいの?」

 少女が駆け寄ると、その生物はぽつぽつとしゃべりました。

「僕が最後だったんだ、もう、この下の世界に、僕の仲間はいなくなってしまった」

「最後?」

「そうさ、僕で、僕たちは絶滅したのさ。僕が最後だったのさ」

 その生物の涙はぽつぽつと落ちて、沼の水面に輪を作りました。

「だから悲しくなって、ここに下の世界を見に来るんだけど、やっぱりもう、いないのさ」

「…ここから下が見えるんですか」

「そうだ、この沼で、下の世界とこの世界が繋がってるのさ」

 少年は、沼を覗き込みました。よく目を凝らすと、確かに、街が見えました。それはそれはカラフルで、少し汚くも思えたのは、きっとこの白い世界に目が慣れてきたせいだと思いました。

「…でも、下にいないならきっと、こっちの世界に仲間がいるんじゃないですか」

 少年はあてずっぽうで言いました。そうであったらいいと思ったのです。そうであったら、この生物は孤独でないと思ったのです。

「そうさ、そうなんだ。きっとこっちにはお母さんがいるんだ。だから探してるんだ」

「お母さん」

「そうさ、僕の大事なお母さん、先に死んでしまった、お母さん…」

 生物は、悲しそうに笑いました。そして、こうつづけました。

「君たちにも、いるだろう?お母さん」

 その言葉を聞いて、いきなり少女が泣き出したのです。うわーんうわーんと、声を上げたのでした。

「うわーん、うわーん!」

 少年は、どうしていいかわからなくなりました。とっても怖くなりました。

「痛いよ、にぃに、痛いよ」

 すぐそばにいた生物は、何かを察したように、階段の方へ走って行ってしまいました。

「にぃに、痛いよ、痛いよ、助けて」

 泣き叫ぶ少女の声を聴いて、だんだんと、だんだんと少年は感覚を取り戻してきました。

 少年は、沼を見ました。そこに、一人の女の人が写っていました。

 黒い髪、低い背。

「お母さん…」

 少年は、思い出しました。妹を、自分を殴る母を。食べ物を与えてくれない母を。家に帰ってこなかった母を。そして、そのまま死んだ自分たちを。

「うわあああああああああああああ」

 気が付くと、自分も叫んでいました。叫んで叫んで、自分の手が黒くなっていくのが見えました。

 少女も少しずつ、少しずつ黒くなっていきます。

「イタイイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ」

 このまま黒に飲まれてしまうのかと思いました。それはとても苦しくて、苦いものでした。そして、白に包まれたあの犬が、とても幸せなものだったに違いないと思いました。

 視界まで黒くなり始めたその時、さっきの生物が大きなコップに白い液体を入れて持ってきました。

「はやくこれを飲みなさい」

 言われるままに、コップに口をつけました。すると、すっと、涙がこぼれました。その涙は、顔の黒に、白い一筋をつけて流れました。

 そして少年は、気を失いました。


 少年が目を覚ますと、そこに、家にいた男の人がいました。ここは家の中の一室のようでした。

「おっ、目が覚めたか」

 最初よりもふわふわなベッドの上に、少年は寝ていました。

 横を見ると、少女はもう目を覚まして、白いコップで白い液体を飲んでいました。

「すべて思い出したかい?」

 男の人の問いに、少年はうなづきました。コップをベッドの横の机に置いた少女も、それに続きました。

「君たちは何のために、ここに来たと思う?」

 何のために。

 少年は、考えました。少女は、つらそうな顔をしています。

「この世界は、君たちを白く染めてくれる」

 男の人は、笑って言いました。

 なんだかとっても泣きたくなったのに、涙は流れませんでした。

 少女は、少年の黒い服の裾をつかんで言いました。

「…にぃに、にぃにの名前、思い出したの。カズヒロっていうの」

「うん」

「それでね、私の名前はね、チヒロなの」

「うん」

「でも、ママはあんまり呼んでくれなかったよね」

「…うん」

 カズヒロは少しうつむいて、小さな声で言いました。

「ママのこと、ここにきて忘れてた」

「そうだね」

「ママはひどかったね、僕たちをすぐ殴った」

 カズヒロは、こぶしを強く握りました。悔しくて、痛くて、つらかったので、いつの間にか、母親を恨んでいました。

「でもねにぃに、ママね、ずっと泣いていたよ」

 カズヒロは、チヒロの目を見ました。小さな黒い目が、光っていました。

「きっとママもね、つらくて、つらくて、逃げたかったんじゃないかな」

 カズヒロは、握っていたこぶしを開いて、手を見ました。

 それは、ニンゲンの手でした。母親も、同じ不完全なニンゲンだったのだと、今更気が付いたのでした。

「だからって、殴っていいわけじゃない」

 カズヒロは、チヒロを守ろうとしていました。それゆえ、恨みが強かったのです。

 そうか、そうだったのかと、カズヒロは納得しました。だからずっと、チヒロの方が白かったのです。

「…けど、僕らはきっとそれを許して、またあの世界に行くために、ここに来たんだ」

「うん、私もね、そう思うよ。ママを許して、私たち自身が、恨みの輪から外れるために、黒く染まらないために、きっとこの真っ白な世界に来たんだよ」

 二人は、男の人を見ました。男の人は笑っていました。

「君たちはまた、あの世界に戻る」

 男の人は、二人の頭に手を伸ばし、なでました。

「全てを許し、許されて、忘れて、そしてまた生まれるんだ。この白い世界から、色の豊かなあの世界に」

 ドアが開いて、さっきの生物が顔を見せました。ここまで運んでくれたようでした。

「もう少しこの世界で休んでいきなさい。そうしたら、君たちも白くなって、全て忘れて、新しい自分になるのさ。それはとても幸せで、切ないものだよ」

 男の人の青い目が、優しく光っていました。二人は元気に返事をしました。

「遊びに行こう、にぃに」

 チヒロはカズヒロの手を引いて、駆け出しました。





読んでくださってありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 不思議な感じで始まり、切なく終わるお話でした。 特に、歌う犬のエピソードが好きです。 ふわふわとして、少し悲しいような読後感に包まれています。
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