窓の向こう
あの瞬間までもうすぐだ。僕は背筋を伸ばして窓の外を見つめる。
チャンスは数秒間・・・絶対に見逃すことは出来ない
近付くその時、高まる緊張、鞄の持ち手を握る手のひらに汗が滲む。
見えた。彼女だ。僕は全神経を彼女だけに集中させる。
ヘッドホンから流れる大好きな音楽も
このときだけは遠くなる。
今日も美しい。いつまでだって見ていたい。
しかし次の瞬間に僕と彼女は無情にも引き離される。
僕の一日のなかで最も大切で、最も愛おしい時間は
それで終わってしまうのだ。
○
通勤電車のモノレールがカーブを曲がり終えてすぐに現れるフィスビルの中、モノレールとちょうど真向かいに当たる窓の向こうに、彼女は居る。
帰路の途中で彼女の姿を見ることが、いつからか僕の楽しみになった。
黒い髪を肩まで伸ばし、服装はいつもモノトーンのカーディガンにブラウス、スカートと決まっている。今時のOLにしては地味だと思うし、はっきり言って特別、美人というわけでもない。おまけに僕は彼女のことをなにも知らないし、僕が窓の外から一方的に見ているだけだから彼女のほうは僕が存在していることにすら気が付いていないだろう。
それなのに、どうしてこれほど惹き付けられてしまうのか自分でもよく解らない。僕をそうさせる不思議な魅力が彼女にあるということなのだろう。
○
今日は少し早めに会社を出ることが出来た。いつも乗るモノレールが来るまでにはまだ時間がある。それまでどこかで時間を潰さなければならない。乗車時間を変えたせいで彼女に会えなくなる可能性も無いとは限らないからだ。
この辺りではそういうときの暇潰しを探すにも苦労する。普通、駅前と言えば店が連なり、行き交う人々で賑わっているものだけど、僕の最寄り駅は例外だ。海を埋め立てたこの地域は、幾多の開発計画が持ち上がっては消えたり、進んでは滞ったりして、だだっ広い空き地が大部分を占めている。時間と共にマンションや商業施設もぽつぽつ増えては来たけれど、目に入る景色はいまだに寂しいものだ。
駅構内のカフェで、時間を気にしながらコーヒーをすする。こうしているとなんだか彼女と待ち合わせをしている気分だ。
こうしているとカフェの自動ドアが開いて彼女が現れる。『ごめん、待った?』とか言いながら。
僕はすかさず『いや、大丈夫だよ。』と答えて彼女を安心させてやる。
そして申し訳なさそうな彼女の肩にさりげなく触れ、促すように店を出るのだ。
自分勝手に走り出す妄想の背中を押すように、音楽を聴いていたヘッドホンからボーカルのポップな歌声が流れ込んできた。
もう何人
追い抜いたら
君まで辿り着ける
恥ずかしいくらい
早まる歩調は
君のせい
もうすぐ君に会えるから
もうすぐモノレールが到着する。はやる気持ちを抑えながらも、僕は足早にホームへ向かった。もっとも僕と彼女が対面することは無いのだけれど。
○
モノレールは定刻通りに僕を乗せ、彼女のもとへ走る。
窓から射し込む夕陽がとても眩しい。こんなに眩しくては彼女の姿を確認しづらくなるじゃないか、とやきもきしているうちに彼女の働くオフィスビルが近付いてきた。
懸念した通りオフィスの窓という窓が夕陽を反射して、ビルそのものが巨大な発光体のようだった。今日は見えないかも、と諦めかけたとき、窓辺の人影に気が付いた。それがブラインドを閉めようとしている彼女だとわかったとき、僕の心臓は大きく跳ね、危うく止まりそうになった。
逆光でオフィス内はよく見えない。窓枠のなかで、彼女だけが周りから、くりぬかれたように見えた。モノレールがビルを通り過ぎる間が妙にゆっくりと感じられる。繊細な手付きでブラインドを降ろす彼女は、夢のように美しかった。
嬉しいような、少し怖いような、声をあげたいような、泣きたいような、いろいろな感情が入り交じって、自分の気持ちがよくわからない。ほとんど毎日、彼女だけを見続けてきたけれど、これほど間近で見るのは初めてのことだった。
彼女の前を通過する瞬間、彼女と目が合ったような気がして、思わず会釈してしまった。そしてすぐに、そんなわけないだろ、と我に返り、ひとりで恥ずかしくなった。モノレールは何事も無かったかのように、次の駅を目指す。
○
ことわっておくが僕はストーカーではない。
僕は窓を越えて彼女と直接的な接触を図ろうとしたことはないし、するつもりもない。彼女の私生活に介入する気など毛頭ないのだ。
僕は彼女があの窓枠のなかで美しく在ってくれればそれで良い。例えるなら、いつも行く場所に飾られている絵画をたまたま気に入って、つい熱心に眺めてしまうのと同じことなのだ。ただ、彼女は人間だから、絵画よりはるかに多くのことが出来る。彼女が隙あらば僕との距離を詰めようとするのはそのためだ。
しかしそれも僕の頭のなかでだけのことだし、僕もそれは充分に理解している。これほど安全な好意の寄せ方があるだろうか。彼女を傷付けることも僕が傷付くこともない。なんの危険性もない。見返りだって求めていない。彼女を見ることさえ出来ればそれで良いのだ。
僕の願望は極めて単純で、純粋で、それは数多の複雑な関係や不純な感情が入り乱れるこの世界において、むしろ素晴らしいものではないだろうか。
○
部屋のベッドに寝転がり、ヘッドホンで音楽を聴きながら、僕はなにか物足りない気持ちを抱えていた。この気持ちの原因はわかっている。今日、彼女に会えなかったせいだ。いつものように窓の向こうに居ることは居たのだが、モノレールが通過する間中、彼女は年配の男性に頭を下げていて、顔を見ることが出来なかったのだ。相手は上司だろうか、彼女に対してなにか激しく怒っている様子だった。その後のことは実際に見ていないけれど、可哀相な彼女がひどく落ち込む姿は容易に想像がついた。
彼女は今ごろどうしているのだろうか。
まさか自室でひとり泣いているのではないだろうか。
叶うなら僕が、あの華奢な身体を抱きしめ、慰めてあげたい。
彼女が泣き止み、安らかな眠りにつくまで、ずっと傍に居てあげたい。
好き放題に盛り上がる妄想を諭すように、ボーカルのハスキーな歌声がヘッドホンから流れ込んできた。
最終電車に乗って
君に会いに行きたいと
毎晩のように思うけど
今夜も出来なかったよ
だけど気にしないさ
明日も電車は走るのさ
ラララ ラララ
そうだ。明日も電車は走る。彼女だってそうだ。僕がこんなバカな妄想をしている間にも彼女は勝手に元気になって、明日には変わらず窓の向こうで働くのだ。そう思うと、少し寂しいような気持ちにもなったけれど、明日は元気な彼女が見られますように、と祈りながら僕は安らかな眠りについた。
○
以前、彼女が他の社員と談笑している場面を見たことがある。
口許に手を当てて、少しうつむき加減に笑っていた。控えめに笑うひとなのだと思いながら、彼女の笑顔が見えなくなるまで、夢中になってモノレールの窓に張り付いていたのを覚えている。
笑い方に限らず、彼女の立ち振舞いにはすべて品があって、好きにならずには居られない感じがあった。フロアを横切るだけの動作だって、彼女のそれは見る者をうっとりさせた。少なくとも僕はそうだ。ありったけの誉め言葉を並べたって彼女のことを伝えるには足りない気がする。窓越しの彼女しか知らない僕ですらそうなのだから、実際に彼女を知るひとたちに語らせたら、きっとこの比では無いだろう。前にも言ったが彼女は特別、美人というわけではない。どちらかと言えば地味なタイプだ。しかし独特の華があるというか、なにかの歌ではないけれど、まさにひっそりと咲く花のようなのだ。なにも特別なことをしているわけではないのに、はっと目を奪われて、強張った心も甘く溶かされてしまう。
そんなふうに今日も、彼女は完璧に僕を癒した。そしていつもと変わらない彼女に僕は安心する。もちろん彼女は僕が心配していたことなど露ほども知らない。
○
ボーカルのアンニュイな歌声がヘッドホンから流れ込んでくる。
君の声が聞きたいのに
雨音が邪魔をする
もっと君に近付きたいのに
互いの傘が邪魔をする
想うほど遠くなるような
君との距離を思い知る
雨は嫌いだ
僕も雨は嫌いだ。雨の日もまた、窓の向こうが見づらくなる。
僕はモノレールに揺られながら雨で煙ったように見える街並みをぼんやりと眺めていた。モノレールがオフィスビルの前に差し掛かると、動く人影が見えた。彼女だ。やはりクリアには見えないのが残念だが、雨雲が重くのし掛かる灰色の景色のなかで、彼女だけはやわらかな提灯の灯りのように明るかった。どんな環境にあっても、彼女の魅力は色褪せない。
水滴の流れる窓の向こうを歩く彼女の姿は、水槽のなかを悠然と漂う小さな魚のようだ。しとしとと控えめに落ちてくる雨粒は彼女の涙を連想させた。笑い方から考えて、きっと静かに涙を流して泣くのだろう。そういうイメージだ。
不意に雨粒がざぁっと窓を叩いた。強い風が吹いたらしい。雨粒が窓を覆って、視界が遮られた一瞬の後、ビルはあっという間に後方へ遠ざかって行った。
なんだか雨が彼女を何処かへ連れ去ってしまうようだった。
○
その日も僕はいつもと同じ時間にいつもと同じモノレールに乗り、いつもと同じように彼女の働くオフィスビルを通過しようとしていた。僕はなにもかもいつも通りだったが、窓枠のなかの彼女は様子が違った。
モノレールの窓から見えたのは数人の社員に囲まれている彼女。
その手には大きな花束が抱えられている。
笑っているような、泣いているような表情で、なにか言っているみたいだった。
当然、彼女の言葉など聞こえるはずも無い。まったく状況が読めず、ぼうっとしているうちに、彼女は僕の視界から消えた。
今の光景はなんだったのだろう?
あの花束は?彼女はどうしてあんな顔を?
考えてみるが見当も付かない。不意に衝撃を感じて我に返った。
幼い少年たちがふざけながらモノレールの車内を駆けていく。そのうちのひとりが僕にぶつかったらしい。あからさまに不快そうな目を向ける乗客も居たが、少年たちはお構い無しにはしゃぎながら隣の車両へ消えていった。
走り去る少年のリュックサックにぶら下げられた大きな鈴が音をたてる。
その音色は、何処かの幸福なふたりを祝して響くウェディングベルを連想させた。
○
通勤電車のモノレールがカーブを曲がり終えてすぐに現れるフィスビルの中、モノレールとちょうど真向かいに当たる窓の向こうに、彼女は居る。
帰路の途中で彼女の姿を見ることが、いつからか僕の楽しみになった。
黒い髪を肩まで伸ばし、服装はいつもモノトーンのカーディガンにブラウス、スカートと決まっている。今時のOLにしては地味だと思うし、はっきり言って特別、美人というわけでもない。おまけに僕は彼女のことをなにも知らないし、僕が窓の外から一方的に見ているだけだから彼女のほうは僕が存在していることにすら気が付いていないだろう。
それでも彼女は僕にとって唯一無二の存在だった。僕の毎日を彩る、大切なひとだったのだ。
○
翌日、窓枠のなかに彼女の姿は無かった。その翌日も。翌々日も。そのまた翌日も。
いつしか僕は窓の向こうに目を向けなくなった。
今日もあてがったヘッドホンから、ボーカルのソフトな歌声が流れ込んでくる。
君が居てくれたこと
きっと忘れないよ
ありがとう、は言えないから
代わりに祈りを捧げるよ
かわいい君が
今日もどこかで
幸せでありますように
【完】
ご観覧ありがとうございました。