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恋愛小説のはずでした

元婚約者のお兄様へ。今日は、あなたをお誘いに来ました

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/10/16

「アルベール様。来週の金曜日、私と出かけていただけませんか」


 向かいに座った人が、茶器へ伸ばしかけた手を止めた。

 私は膝の上で指を重ね直した。今からでも、伯母の家で庭遊びの集まりがあるのです、と先に説明できる。お客様が一人足りなくて、どなたか来てくださらないかと思いまして。そう言えば、きっと困らせずに済む。

 けれど、私は困らせない言い方をするために、ここへ来たのではなかった。


「弟君のお話をしに来たのではありません。今日は、あなたをお誘いに来ました」


 アルベール様は、こちらを見たまま黙っていた。

 同じ長椅子の端に座る母が、私の分の紅茶を卓上へ置いてくれた。その小さな音にまで、肩が跳ねそうになった。


「……私を、ですか」

「はい。金曜日は、お忙しいでしょうか」

「午後は空いています。ただ、セシル嬢。もし我が家との付き合いをお気遣いなら、その必要はありません」


 予想はしていたのに、少し悲しかった。

 私だって、そんな用事がなければ会ってはいけないと思っていた。婚約が正式に終わってから、訪問をお願いする短い手紙を書くまでに、八週間もかかってしまったのだ。


「家のお付き合いでしたら、父に任せます。私が、あなたと出かけたいのです」


 そこまで言ってしまうと、急に、自分が何をしに来たのかが恥ずかしくなった。

 初めて訪ねた屋敷の応接間は、白い壁と青い椅子の落ち着いた部屋だった。窓辺の小机には、書きかけの手紙が置かれている。

 何度も通ったロシュ伯爵家の本邸とは違う。あちらに暮らす方と、私は結婚するはずだった。

 私の元婚約者は、目の前にいる人の弟だ。


「伯母が庭へ何人か招いています。木の球を投げる遊びをするそうです。前に、お好きだとおっしゃっていたので」


 アルベール様の目が、少し大きくなった。


「覚えていてくださったのですね。随分前の話です」

「去年の秋の、お食事の時です。お父様に三度続けて勝って、四度目は球を取り上げられたと」

「父が不利になるたびに、庭の傾斜のせいにした日ですね」


 真面目な声で言うので、私は笑ってしまった。

 あの時もそうだった。皆が食後の酒を飲んでいる間、アルベール様の話を聞いて、笑った。いつも物静かな方だと思っていたのに、お父様の負け惜しみを真似る口調が妙に似ていた。

 また、あんなふうに笑いたかった。


「ご迷惑でしたら、お断りになってください。でも、家のことは抜きにして、お考えいただけたら嬉しいです」


 彼は卓上の茶器を一度見て、姿勢を正した。


「行きたいです。私でよければ、と申し上げそうになりましたが……私を誘ってくださったのですね」

「はい」

「では、喜んで。金曜日を、楽しみにしています」


 受けてくださった。

 胸の中に用意していた断られた時の挨拶が、どこかへ消えた。私は何と返すべきか分からなくなって、母を見た。母は助け舟を出さず、紅茶を飲んでいる。

 もう一度彼へ向き直ると、待っていてくれた目と合った。


「私も、楽しみにしていました。……あ、まだ金曜日にはなっていませんね」

「今日のことでしたら、私もです」


 彼がようやく笑った。

 その笑顔を見た途端、会えないままだった八週間の間、私はこの人に会いたかったのだと、改めて分かった。


 * * *


 金曜日まで、私は家の庭で木の球を転がした。

 伯母に一組借りてきたのは、あまり下手で迷惑をかけたくなかったからだ。少なくとも、初めはそうだった。

 白い小球のそばへ寄せるだけの遊びなのに、強く投げれば通り過ぎ、控えれば手前で止まる。だんだん腹が立ってきて、最後には、夕食を知らせに来た母を待たせてもう一球投げていた。


「金曜日の前に、庭が禿げてしまうわ」


 母に言われて見下ろすと、同じところを歩き回ったせいで、芝がすっかり倒れていた。

 私は球を籠へ戻しながら、思わず声を出して笑った。笑ってから、母もこちらを見て笑っているのに気づいた。


「……私、浮かれているでしょうか」

「楽しみにしているのでしょう。それは、悪いことではないわ」


 分かっているのに、確かめたくなった。

 二か月ほど前、私が婚約していたクロード様は、私といても楽しくないと言った。別の方を好きになったので、婚約は取りやめにしたいと。

 私たちは二年間、婚約していた。最初の年には、彼からも会いたいという手紙が届いた。並んで歩いているだけで嬉しかったし、彼の帰りが遅い日は、雨に降られなかったか気になった。

 楽しくなかったことばかりではない。だからこそ、最後の数か月も、また以前のようになれると思っていた。


『その話、まだ続くのか?』


 何の話をしていたのだったか。

 たしか、伯母の家の垣根に鳥が巣を作ったことだった。剪定する予定を変えた庭師の話をしたら、彼は懐中時計を見た。

 疲れているのだと思って、その日は早く帰った。次からは用件を先に言い、彼が少しでも退屈そうにすると、自分で話を畳んだ。

 それでも、私といるのはつまらないのだと言われた。


『私は、あなたのお話を聞くのも、自分の話をするのも、楽しみにしていました。それを面倒だとおっしゃるなら、私も結婚は望みません』


 別れの際にそう言うと、クロード様は面倒そうに顔をそむけた。

 もう、続きを言う必要はないと思った。彼が聞きたくないのなら、私にも、その隣に座り続ける義務はない。

 父を通した話し合いで、一週間後には正式に婚約が解消された。指輪も返した。その夜は、外した指を母に見せながら泣いた。


 あの家へ行かなくてよくなったことには、ほっとした。

 でも、食後にアルベール様と交わしたような短い会話も、もうできなくなるのだと気づいた時は、思いがけず寂しかった。

 彼とは、家族が揃う食事の席で、何度か話しただけだった。二人きりで会ったことも、手紙を書いたこともない。それなのに、この話ならあの人はどう思うだろうと、何度も考えた。

 やがて、考えているだけでは返事は聞けないと、当たり前のことに気づいたのだった。


「もう一度ロシュ家と縁を結びたいのかと、聞かれるかもしれませんね」


 球の入った籠を持ち上げながら言うと、母はしばらく考えた。


「そういう聞き方をする方もいるでしょうね。お父様も、最初は心配していたわ」

「お父様に、また頼んでほしいわけではありません」

「ええ。それは、あなたから話してもらいましょう。私たちが決めて、あとからあなたに知らせるようなことにはしないわ」


 母は籠を持つ私の手へ、そっと触れた。


「ただ、傷ついたことまでなかったことにして、あの家の人たちに笑いかける必要はないのよ」


 私は頷いた。

 アルベール様に会いたい。それと、元の婚約が悲しい終わり方をしたことは、どちらも本当だった。

 球を片付けると、私は父の書斎へ向かった。金曜日を楽しみにしていることを、自分の言葉で話したかった。


 * * *


 金曜日の午後、伯母の庭には十二人ほどの客がいた。

 丸い卓の上で白い布が揺れ、木陰では年配の方たちがお茶を飲んでいる。私は母と一緒に到着してから、何度も門の方を見た。

 やがてアルベール様が現れると、そばへ来ていた伯母が、私の肘を軽くつついた。


「来てくださったわね。あなた、門番よりよく見ていたもの」

「そんなに、分かりましたか」


 伯母は答える代わりに笑って、私の背中をそっと押した。


 挨拶のために近づくと、アルベール様は私の服へ目を留めた。


「よくお似合いです。その色の服は、初めて拝見します」


 淡い黄色の、袖の短い夏服だった。球を投げるのに邪魔にならないものを、と母には言った。鏡の前で襟元を何度も直したことまで、知られてはいないと思う。

 お礼を言うと、彼は自分の袖を見た。


「私は、張り切りすぎたでしょうか。動きやすい服で来てしまいました」

「勝つおつもりで?」

「お誘いいただいたからには、真剣に」


 私は嬉しくなった。

 彼のこういうところを、もう一度見たかったのだ。


 借りていた球の籠を伯母に返し、組み合わせを決めてもらうと、私たちは芝に引かれた同じ白線の後ろへ並んだ。私の球は赤、アルベール様の球は青。少し先には、的になる白い小球が置かれている。

 初めの一球は、思ったよりよく転がった。

 アルベール様が身を屈め、球と球の間を見た。それから、私に顔を向ける。


「練習なさいましたか」

「少しだけ。お食事に呼ばれるまでです」

「それを、何日ほど」


 私は答えずに次の球を取った。

 彼は笑ったが、その後の一投は容赦がなかった。私の赤い球よりも、白い的へずっと近く止まったのだ。

 負けたくない。そう思った私の球は、勢いがつきすぎて的を通り過ぎ、向こうの花壇へ入った。


「……今のは、芝の傾斜が」


 口から出てしまってから、アルベール様のお父様の話を思い出した。

 彼も思い出したらしい。球を拾おうと屈みかけたまま、肩を震わせている。


「どうぞ、お笑いになってください。私も今、自分が少し嫌です」

「いえ。父に聞かせたいと思いまして。同じ意見の方がいたと、きっと喜びます」


 彼は花を踏まないように回り込み、球を拾って戻ってきた。

 差し出された赤い球を受け取る時、指先が触れた。彼の手は私よりずっと大きかった。以前から知っている人なのに、そんなことも、今まで知らなかった。

 球の表面が陽を受けて温かい。その温かさが自分の頬まで続いている気がして、私は慌てて的を見た。


 二度目の勝負では、途中まで私が勝っていた。

 最後の一球を持ったアルベール様が、なかなか投げない。右から見る、左から見る、少し戻ってまた考える。その真剣さに、私の方が笑い出した。


「そんなにお悩みなら、そのまま負けてくださっても」

「ここで考えずに負けたら、帰ってからずっと考えてしまいます」

「では、お待ちしています」


 彼は礼を言って、本当にもう少し考えた。

 結果は、青い球が私の赤い球を押し、的のそばへ収まった。

 思わず声が出た。彼も、やった、と言ってから、私の顔を見て口をつぐんだ。


「お喜びになっていいのですよ。悔しいですけれど、今のは、お見事でした」


 そう伝えると、彼は遠慮をやめて笑った。いつもの落ち着いた微笑みとは違う、勝った人の顔だった。

 私はその顔を見ながら、次は勝とうと思った。彼に褒められるためというより、また一緒に遊びたかった。


 休憩になり、手を洗ってから冷たい果実水を受け取った。

 二人で木陰へ座る。母と伯母は少し離れた卓にいて、互いの扇の模様を見比べていた。


「ところで、あの巣はどうなりましたか」


 アルベール様に尋ねられて、私は杯を口元で止めた。


「巣、ですか」

「以前、こちらの垣根に鳥が巣を作ったと、お話しなさったでしょう。雛は巣立ちましたか」


 春先に、ロシュ家の食事の席で話し始めたことがあった。クロード様に途中で切られた日の、何日か後だ。

 皆の前だったので、彼に遮られたわけではない。ただ、隣で退屈そうに酒を飲む顔を見て、私は自分でやめたのだった。


「お話ししましたね。……皆、無事に。少し騒ぎになったのですが」

「騒ぎ?」

「庭師の奥様が、剪定を延期したご主人のために差し入れを持ってきたんです。その籠から、鳥がパンを持っていってしまって。巣を守ったのに恩知らずだと、ご主人が言うものですから」


 そこで、いつものように話を切りそうになった。

 アルベール様は自分の杯を卓上へ置いて、続きを待っている。聞く姿勢を作ってくださっているのが分かり、今度は、かえって緊張した。


「奥様は、何と?」

「……守ったことなんて、鳥に分かるはずがないでしょう、と。でも、その後も垣根のそばを通るたびに、パン屑を少し置いていました」

「それは、ご主人には黙って?」

「はい。ただ、ご主人の方も、雛が出てくると私を呼ぶのです。あんな鳥は知らないと言ったのに、一番小さい雛を気にしていて」


 彼が笑ったので、私も笑った。

 それだけの話だった。誰かが驚くような結末も、立派な教訓もない。今ではもう、垣根の剪定も終わっている。

 でも私は、話したかった。見ていて嬉しくなったことを、この人にも聞いてほしかった。


「お聞きくださって、ありがとうございます」

「私の方こそ、続きが聞けて嬉しいです。途中で終わっていたので、気になっていました」


 お世辞なら、こんな何でもない話を何か月も覚えているだろうか。

 胸がいっぱいになって、果実水を飲むのに少し時間がかかった。彼は急がせず、今度は自分の父が球を隠した場所の話をした。

 伯爵様は帽子箱へ球を隠し、帽子の方は別の箱へ移したらしい。そのことを忘れて三日後に騒ぎ、箱を開けて球が出てきたので、ようやく思い出したという。


 帰る時、アルベール様は母にも挨拶をしてから、私へ向き直った。


「次は、私からお誘いしてもよろしいでしょうか」


 次があるのが嬉しくて、返事をする前に笑ってしまった。


「はい。また勝負をしてくださるのですか」

「それもぜひ。でも、ほかの時にもお会いしたいです。球がなくても」


 私はもう、笑って誤魔化せなかった。

 彼は帽子を両手で持ち、私の返事を待っている。その指が縁を握り直すのを見て、この人も緊張しているのだと、初めて気づいた。


「私もです。勝負の続きだけではなく、あなたとお話ししたいです」


 彼が、ほっとしたように息をついた。

 帰りの馬車では、母の隣で窓の外ばかり見ていた。何を見ても彼へ話せる気がして、王都へ戻る道がいつもより短く感じられた。


 * * *


 それから、私たちは何度か会った。

 私の家へお茶に来てもらい、母と三人で散歩をし、知人の小さな集まりで隣に座った。手紙も届くようになった。長い手紙ではなかったけれど、私が前に話したことへの返事が、どこかに入っていた。

 私からも、返事を書いた。便箋の端まで来て、もう一枚使おうかと迷うことが少しずつ減った。

 書きすぎたかもしれません、と末尾へ付けた日の返事には、読み終えてしまったのが残念でした、とあった。


 もちろん、いつも二人の話が合うわけではない。

 ある日、アルベール様は私が好きな芝居の登場人物を、どうにも好きになれないと言った。私はその人物が最後に帰ってくるところで泣いたのに、彼は、帰る前に一度くらい便りを出せばよかったのにと言う。


「出してしまったら、最後の場面がなくなります」

「待っている家族にしてみれば、あった方がいい便りだと思います」

「物語のお話をしていますのに」


 私は反論を考え、彼は私が言う前から楽しそうにしていた。

 こちらの考えを曲げないまま話していても、帰る時には、また会う約束ができた。彼の言うことにも一理あると思うのが、少し悔しかった。


 ある夕方、彼が訪ねてきた時には、私の方が先に気づいた。

 顔色が悪いのではない。ただ、いつもより返事がゆっくりで、同じ書類の話を二度した。


「今日は、お疲れではありませんか。お茶を飲むだけになさっても」


 言ってから、心細くなった。以前のように、自分から話をやめる癖が戻ったのかもしれない。

 けれど、アルベール様は椅子の背へ、ほんの少し肩を預けた。


「助かります。伯父と朝から話し合いをしていまして。私は、同じことを言っていましたか」

「少し。でも、よほど決まらなかったのだと分かりました」


 彼は困ったように笑った。それから、今度は何について揉めたかでなく、伯父が休憩中に一人だけ先に菓子を食べたという愚痴を言った。

 私も一緒になって腹を立てた。話が決まらなかったことより、楽しみにしていた一個を食べられたことの方が、今は悔しいらしかった。


「次は、ご自分の分を先にお皿へ」

「そうします。……あなたの前では、私は随分と子供ですね」

「私も、球を遠くへ投げて芝のせいにしました。お互い様です」


 彼はしばらく笑ってから、窓の外を見た。

 もう少ししたら帰る時刻だった。私も同じことを考えていたから、言葉にならない寂しさが伝わってしまった気がした。


「次にお会いする時には、伯父の話はやめます」

「決まったかどうかは教えてください。途中まで聞きましたから、気になります」


 彼は私を見た。

 その顔があまりに嬉しそうで、私は、自分の言ったことを頭の中でもう一度聞き直した。

 私もこの人の話を聞きたい。それが彼にとっても嬉しいのだと分かると、次の約束までの日が、ただ待つだけではなくなった。


 * * *


 誘いに行った日から六週間ほどたった頃、伯母の茶会でクロード様に会った。

 招かれていることは、前もって伯母から聞いていた。行かなくてもよいと言われ、私は、一晩考えた末に出席すると返事をした。

 いつかは顔を合わせることもあるだろう。けれど、今度は彼の隣に座って、彼の機嫌を確かめるために行くのではない。


 クロード様は初め、私のそばにいる兄を見て、驚いた顔をした。

 別れた時のことを思い出して、私は胃のあたりに力を入れた。アルベール様がこちらを見たが、その腕へ隠れるつもりはなかった。


「久しぶりだな。兄さんと来たのか」

「はい。ご一緒に伺いました」


 クロード様は兄と私を見比べ、少し安心したように笑った。


「兄さんなら、君の話も根気よく聞いてくれるだろう。母も喜ぶ。これで、うちと君の家も元どおりだな」


 何と返すか、馬車の中でいくつも考えたはずだった。

 けれど、こんなふうに言われるとは思っていなかった。私があの家へ戻ることで、以前の出来事まで穏やかに片付くような言い方だった。

 アルベール様が口を開くより先に、私は首を振った。


「元どおりにはなりません。あなたとの婚約は、終わりましたから」

「いや、それは分かっている。だから兄さんが——」

「私から、お誘いしたのです」


 彼の言葉が止まった。

 私は、一度だけ息をついた。怒ると声が震える。震えたからといって、言えないわけではなかった。


「家のために、アルベール様に引き受けていただいたのではありません。この方に会いたくて、私から伺いました。あなたと別れたことを、なかったことにするためではありません」


 クロード様が兄を見た。

 アルベール様は、静かに頷いた。


「私も、セシル嬢に会いたかった。これからのことは、私たちで考える。家の仲直りの話にはしないでくれ」


 クロード様の目が、私へ戻った。

 何か言おうとして、やめたのが分かった。私は会釈をして、伯母のいる卓へ向かった。

 彼が最後にどんな顔をしていたかは、振り返らなかったので知らない。


 木陰へ着く前に、アルベール様が立ち止まった。


「セシル嬢、申し訳——」

「今日はもう、弟君のために謝らないでください。私、お誘いしてよかったと思っていますから」


 まだ怒っていたけれど、その怒りを彼への返事にしたくはなかった。

 彼は口を閉じ、少し考えた後で頷いた。


「そうですね。では、私のことを話してもいいでしょうか」


 私は頷いた。


「あなたから会いに来てくださった日のことを、今また思い出していました。あの日、私は弟の話をするつもりで、謝罪の言葉ばかり考えていたのです」

「そうだろうと思いました。お顔が、とても難しそうでしたから」

「あなたが誘ってくださった時、すぐには信じられませんでした。帰られた後で、家令にも確かめたくらいです。金曜日の約束をしたのは、私だったな、と」


 想像すると、おかしかった。

 私の方は馬車の中で、母へ何度も同じことを尋ねていた。金曜日に来てくださると、そうおっしゃいましたよね、と。


「私も、母に確かめました」


 そう言うと、彼は驚いて、それから笑った。

 さっきまで胸の中に残っていた硬いものが、少し緩んだ。クロード様の言葉で傷つかなかったわけではない。でも、今日はその話だけを持って帰りたくなかった。

 私は自分から、アルベール様の腕に手を添えた。


「今日は、あの話の続きを伺えますか。伯父様とのお話し合いは、どうなりました?」

「ようやく決まりました。ただ、その前に私の菓子を確保しても?」


 伯母の卓に焼き菓子の皿が見え、私は笑った。

 二人でそちらへ歩いた。腕を取った手に力が入っていたのに気づいたのは、彼が歩幅を小さくしてくれた時だった。

 私は少しだけ指を緩めた。それでも、手は離さなかった。


 * * *


 初めて誘った日から、二か月が過ぎた。

 私はまた、アルベール様の屋敷を訪ねた。今日はお茶をいただく約束で、母も一緒だった。

 応接間の庭へ続く扉は開けられ、白い壁に木の葉の影が揺れていた。あの日に比べると、庭の緑がずっと濃い。

 母は彼の家令に花の名前を尋ねながら窓辺へ向かい、私たちは卓を挟んで座った。


「今日は、お話ししたいことがあります」


 アルベール様が言った。

 私も同じ言葉を用意していたので、思わず姿勢を正した。


「私もです。でも、先にどうぞ」


 彼は頷き、すぐには話し始めなかった。

 卓上には、まだ誰も手を付けていないお茶があった。最初にここへ来た日も、私は紅茶をほとんど飲めなかった。あの日、何を怖がっていたかを思い出すと、今、彼が少し黙っていることにも胸が苦しくなった。


「セシル。あなたと、結婚したいと思っています」


 呼び捨てにされた名前が、言葉の続きと一緒に胸へ入ってきた。

 私は唇を開いた。彼は急いで続けず、こちらを見ていた。


「……私と、ですか」


 聞いてから、自分で気づいた。初めて私が誘った時、彼も同じように聞き返したのだった。

 アルベール様も気づいたらしく、緊張した顔のまま、少し笑った。


「あなたとです。私の話を、最後まで聞いていただけますか」


 私は頷いた。


「あなたが訪ねてこなくなって、家の食事が静かになりました。父や弟がよく喋るので、実際には静かでもなかったのですが……私は、あなたなら今の話をどう思うだろうと、考えてばかりいました」


 同じだった。

 彼も、返事を聞けない相手へ、胸の中で話しかけていたのだ。


「その頃はまだ、以前のように話したいのだと思っていました。けれど、あの日あなたに誘われて、金曜日まで落ち着かなかった。ほかの誰かと先に組んでしまったらどうしようと、馬車の中で考えました」

「私も、あなたに負けるところを、何度も考えました」

「そこですか」


 私は笑って、少し泣いた。

 彼は困った顔になったが、話をやめなかった。それが嬉しかった。


「悔しがるあなたを見て、また会いたくなりました。私のどうでもいい愚痴を聞いて、一緒に腹を立ててくださる時も。手紙の続きを待つようになって、今日は何をしているだろうと考えて……今は、同じ家で聞けたらと思っています」


 窓辺で、母が静かに庭の方へ出ていくのが見えた。扉は開いたままで、日傘の先が、すぐ外の葉陰に見える。

 アルベール様は椅子から立ち、卓を回って私の前へ来た。それから片膝をつき、私へ手を差し出した。


「私の弟と、これからも全く顔を合わせずに済むとは言えません。そのことで、あなたに嫌な思いをさせる日があるかもしれない。けれど、私の妻だから我慢してほしいとは、言いたくありません。会う日も、行きたくない日も、私に話してほしいのです」


 私は、差し出された手を見た。

 家と家を結び直すための申し込みではない。この人が、自分の望みを私に話している。


「あなたのご両親にお会いするのが嫌なのではありません。でも、昔のことを全部忘れた顔をするのは嫌です。まだ平気ではないと、言ってもいいでしょうか」

「もちろんです。今日なら会いたいと思う日も、私に教えてください」


 彼は頷いた。

 私はその手に自分の手を重ねた。大きな掌が、動かずに待っていてくれる。


「でも、今それよりも、あなたと暮らすことを考えていました。帰ってきたあなたに、今日あったことを話すのです。あなたの話も聞きます。何もなかった日には、一緒に庭へ出て、私が勝つまで球を投げていただきたいです」

「それは、暗くなっても帰れませんね」

「そんなに長くはかかりません。……たぶん」


 笑おうとして、声が震えた。

 彼の指が、私の手を包んだ。初めて球を受け取った時よりも、はっきりと温かかった。


「初めて伺った時は、あなたのことを、まだ少ししか知らなかったんですね。球を一つ投げるのに、あんなに迷う方だとも。私の好きなお芝居の結末に、あんなにご不満だとも」


 アルベール様が、照れたように笑った。

 今は、うまく投げられた時の顔も、反論を考えている時の顔も知っている。その一つ一つを思い出すだけで、私はまた彼と話したくなる。


「でも今は、そんなところまで好きです。お帰りになった後も、あのお顔を思い出して笑ってしまうのです。次に会ったら何を話そうと考えているうちに、もう会いたくなって……私、あなたが大好きです」


 重ねた手に、少しだけ力がこもった。

 彼が息を吸い、言葉を探すように口を開いた。


「セシル。私も、あなたと会える日は、朝からそのことばかり考えています。愛しています。私と結婚してください」

「はい。私も、あなたを愛しています」


 彼は頷いた後、しばらく動かなかった。

 私が立ち上がると、握った手に引かれて彼も立った。いつもより近い顔を見上げ、私は、この人も泣きそうなのだと気づいた。


「抱きしめたいのですが」

「はい。私も、そうしていただきたいです」


 腕が背中へ回った。

 私は彼の胸に頬を寄せ、上着を両手で掴んだ。ずっと話していたかった人が、こんなに近くにいる。声を聞かなくても、胸が忙しく上下していることが分かった。

 初めてあの誘いを口にした私へ、教えてあげたかった。断られるかもしれないと思いながら来て、返事を待って、この人も嬉しかったのだと。


「今日、お話ししたかったことは何ですか」


 耳元で聞かれ、私は顔を上げた。

 彼はまだ私を抱いている。そのままでは、とても落ち着いて説明できなかった。


「もう少し、長く一緒にいたいと。毎回、帰る時刻を気にするのは寂しいので」

「では、同じ話だったのですね」


 彼が笑った。近くで見ると、少し照れたように目を伏せるところまで分かった。

 私は頷き、彼の肩に置いた手へ力を込めた。背伸びをしたところで、彼が意図を察して屈んでくれる。

 唇が触れた。ほんの短い口づけだったのに、離れた後も、どちらからも話し出せなかった。


「……続きのお話は、あとからでもいいですか」


 私が尋ねると、アルベール様は、はい、と答えた。

 今度は彼の方から顔を近づけてくれたので、私は目を閉じた。


 * * *


 両家へは、私たちから話をした。

 父は、最初に私がアルベール様を誘った頃より、ずっと穏やかな顔で話を聞いた。それでも二人に確かめたいことは多かったらしく、住む家や今後の暮らしについて尋ねるうちに、お茶がすっかり冷めてしまった。

 ロシュ伯爵夫妻には、昔と同じ付き合い方には戻れないことも伝えた。すぐに何もかも気楽になったわけではない。それでも、招かれた集まりに誰が来るかを先に知らせてもらうようになり、私は自分で返事ができた。


 秋に結婚し、私は白い壁の屋敷へ移った。

 初めて来た時には、緊張して通った玄関に、今は私の外套も掛かっている。庭へ出る扉のそばには、大きな籠が一つ増えた。中には赤と青の球が入っている。

 そして今日、私はようやく、夫に二度続けて勝った。


「もう一度、お願いします」


 アルベールが真剣に言うので、私は笑った。


「先ほど、日が暮れるとおっしゃったのは、あなたですよ」

「まだ少し見えます」


 私は白い的の方を見た。薄暗くなった芝の上で、小球の輪郭はもうぼんやりしている。


「私には見えません。勝った後なので、特に」


 彼は笑って、球を籠へ戻した。

 私も隣に屈んで手伝うと、アルベールが、あと一度で勝てた気がする、と呟いた。その声がおかしくて、私は球を落としそうになった。


「続きは明日です。お食事の後、お話ししたいことがありますから」

「今では駄目ですか」

「長くなります」


 顔を上げると、彼が私を見ていた。


「それは楽しみです。食事の後なら、帰る時刻もありません」


 私は赤い球を最後に一つ、籠へ入れた。

 彼が籠を持ち、空いている方の手を差し出す。私はその手を取り、並んで家へ向かった。

 玄関まで待ち切れなくて話し始めると、アルベールは少し笑って、最初から聞いてくれた。

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