第8章 グラーシャの日記 明日は絶対見ます!
今日は。
というより。
昨日くらいから。
いえ。
よく考えたら、その前から。
なんだかお屋敷の様子がおかしいのです。
* * *
前から、噂には聞いていました。
宮廷では時々、とても変わった催しがあるのだそうです。
男の方が女の方の服を着て。
女の方が男の方の服を着て。
そのまま舞踏会をする。
そんなお話です。
最初に聞いた時は、
「そんなこと、本当にあるのかしら」
と思いました。
だって。
変でしょう?
男の人が。
それも宮廷へ出るような立派な貴族の男の方が。
大きなスカートのついた、きらきらしたドレスを着て。
髪までご婦人みたいにして。
お化粧までして。
そのまま踊るんですって。
まるで。
魔法のお話みたいです。
朝までは普通の男の人だったのに。
夜になったら、どこから見ても綺麗な宮廷婦人になっている。
そんなこと。
本当にあるのでしょうか。
* * *
ところが。
宮廷に出入りする方のお屋敷で働いたことがあるナージャが言うには。
本当にあるのだそうです。
「見たことあるわよ」
「本当に?」
「本当に」
「男の人が?」
「男の人が」
「ドレスを?」
「ドレスを」
「お化粧も?」
「してたわよ」
そんなことを聞いたら。
気になるに決まっています。
どんなふうになるのでしょう。
大きな男の人でも、ご婦人に見えるのかしら。
若い人なら、本当に綺麗になるのかしら。
それとも。
どう頑張っても、
「男の人がドレスを着ています」
という感じになるのかしら。
そんなことを考えていたのですが。
まあ。
私には関係のないお話です。
宮廷の偉い方々のお話ですから。
そう思っていました。
* * *
ところが数日前。
ナージャが。
とんでもないことを言いました。
「グラーシャ。聞いた?」
「何を?」
「今度のあれ」
「あれって?」
「メタモルフォーゼ会」
「……え?」
「イリヤ様も呼ばれたらしいわよ」
私は。
たぶん。
しばらく何も言わなかったと思います。
「……誰が?」
「イリヤ様」
「うちの?」
「ほかにどこのイリヤ様がいるのよ」
「若旦那様が?」
「そう」
「ドレスを?」
「そういう会なんでしょう?」
そんな。
まさか。
* * *
イリヤ様が。
あの。
いつもきちんとした上着を着て。
すらっとしていて。
とても格好よくて。
廊下ですれ違うだけでも、
「今日も素敵だなあ」
と思ってしまう。
あの若旦那様が。
ドレスを。
着る。
私は想像してみました。
……。
よく分かりません。
全然想像できません。
でも。
想像できないからこそ。
すごく。
見てみたい。
いえ。
別に。
変な意味ではありません。
ただ。
あんな素敵な男の方が。
本当に綺麗な宮廷婦人になってしまうなんて。
そんなことがあるなら。
一度くらい。
見てみたいじゃありませんか。
普通でしょう?
普通だと思います。
* * *
でも。
まだ噂です。
ナージャだって、
「らしいわよ」
と言っただけ。
私は半分くらい疑っていました。
ところが。
昨日から。
どうも本当に様子がおかしくなってきました。
* * *
若旦那様のお部屋の方へ。
いつもはいない人たちが出入りしています。
奥様付きの方まで行っています。
知らない人も来ています。
何か大きな荷物も運ばれています。
今日など。
私は仕事の途中で。
たまたま。
本当にたまたま。
若旦那様のお部屋の近くを通りました。
別に。
何か見ようと思ったわけではありません。
ちょうどそちらを通った方が便利だったのです。
……少しくらい遠回りだったかもしれませんけれど。
そこは気にしないことにします。
* * *
その時。
大きな箱が運ばれていました。
一つではありません。
いくつも。
そしてナージャが小声で言いました。
「あれ、ドレスじゃない?」
「ドレス?」
「そう」
「ドレスって、あの着るドレス?」
「着ないドレスって何よ」
「……そうだけど」
でも。
変です。
「奥様のお衣装じゃないの?」
「だったら奥様のお部屋へ運ぶでしょう」
「あ」
確かに。
運ばれていく先は。
若旦那様の方です。
私はナージャを見ました。
ナージャも私を見ました。
「……まさか」
「だから言ったでしょう」
「本当だったの?」
「たぶんね」
その瞬間。
数日前まで。
夢みたいな噂だった話が。
急に。
ものすごく現実になりました。
* * *
それからというもの。
仕事が手につきませんでした。
もちろん。
ちゃんと働きました。
働きましたけれど。
気になるのです。
今。
若旦那様は何をしているのでしょう。
もう着替えているのかしら。
まだなのかしら。
お化粧もするのかしら。
髪も変えるのかしら。
どんなドレスなのかしら。
何色なのかしら。
似合うのかしら。
考え始めたら。
止まりません。
そして。
なぜか今日に限って。
仕事がいっぱいあるような気がするのです。
廊下へ行こうとすると、
「グラーシャ、こちらをお願い」
食器を片づけていると、
「次はこちら」
用事を終えたと思えば、
「これも持っていって」
どうして。
今日なのですか。
昨日でも。
明日でもいいではありませんか。
もちろん。
本当はいつもと同じくらいだったのかもしれません。
でも今日は。
いつもの三倍くらい忙しい気がしました。
* * *
何度か。
若旦那様のお部屋の近くまで行けそうになりました。
あと少し。
もう少し。
そこまで行けば。
もしかしたら。
ところが。
「グラーシャ!」
「はい!」
呼ばれます。
そしてまた。
別の仕事です。
もう。
どうしてなのでしょう。
* * *
結局。
私は。
見られませんでした。
* * *
夕方になって。
ようやく。
実際に若旦那様のお支度を少し見たという人を捕まえました。
「ねえ」
「何?」
「見たの?」
「何を?」
「分かってるでしょう!」
「ああ」
「ああ、じゃないわよ。どうだったの?」
「どうって」
「若旦那様!」
「綺麗だったわよ」
「本当に?」
「ええ」
「どのくらい?」
「どのくらいって言われても……」
「ご婦人に見えた?」
「見えたわね」
「本当に?」
「だから本当だって」
「お化粧も?」
「してたわよ」
「髪も?」
「ちゃんとしてた」
「ドレスは?」
「立派だったわよ」
「何色?」
「もう、質問多いわね」
だって。
仕方ないではありませんか。
私は見ていないのです。
* * *
「じゃあ、今から行けば見られる?」
「もう無理じゃない?」
「どうして?」
「もう脱いでると思うわよ」
「…………」
「今日は練習だったんでしょう? 終わったから」
「お化粧も?」
「もう落としてるんじゃない?」
「………………」
私は。
とても。
とても。
悔しかったです。
* * *
同じお屋敷にいたのに。
ほんの少し向こうの部屋で。
いつも素敵だと思っていた若旦那様が。
髪を整えて。
お化粧をして。
大きなドレスを着て。
本当に綺麗な宮廷婦人になっていたのに。
私は。
お皿を運んでいました。
ひどい。
誰が悪いわけでもないけれど。
ひどい。
* * *
今日。
眠れるでしょうか。
たぶん。
無理だと思います。
だって。
「本当に綺麗だった」
なんて言われたら。
余計に見たくなるではありませんか。
どんなだったのでしょう。
いつもの若旦那様の顔なのに。
ご婦人に見えるのでしょうか。
笑ったらいつものイリヤ様なのかしら。
それとも。
笑っても別人みたいなのでしょうか。
気になります。
ものすごく。
気になります。
* * *
でも。
まだ終わってはいません。
明日。
いよいよ本番なのだそうです。
そして。
大変重要なことを聞きました。
若旦那様は。
宮殿へ行ってから着替えるのではありません。
このお屋敷で全部のお支度を済ませてから、馬車へ乗るのだそうです。
* * *
ということは。
お部屋から。
廊下を通って。
玄関へ来て。
そこから。
馬車へ乗る。
絶対に。
どこかを通ります。
私は。
このお屋敷で働いています。
廊下がどこへつながっているかも。
どこから玄関が見えるかも。
どこなら邪魔にならずにいられるかも。
よく知っています。
もちろん。
明日も仕事はあります。
仕事は。
ちゃんとします。
でも。
若旦那様がお部屋から馬車へ向かう。
そのほんの短い間くらいなら。
きっと。
見られます。
いえ。
絶対に見ます。
なんだか。
燃えてきました。




