愛すべきドパガキ
ドパガキ
情緒の循環を求める人間の本能を、突き詰めた存在。
それが「ドパガキ」だった。
第一章 ループの始まり
雨の匂いがした。
コンクリートの隙間から生える雑草の、青臭い匂い。夜の街灯が水たまりに映って、ゆらゆらと揺れていた。
僕は、またここに立っていた。
同じ場所。同じ時間。同じ姿勢で。
名前を呼ばれても、もう誰も振り向かない。僕の名前は、とうに消えていた。残っているのは、ただの「循環」だけだ。
情緒が、回る。
嬉しい。悲しい。怒っている。寂しい。また嬉しい。また悲しい。
人間は、この循環を求める。止まらない。止められない。止まった瞬間に、存在が薄れることを知っているから。
僕は、その本能を突き詰めた。
突き詰めすぎた。
だから、ドパガキになった。
第二章 情緒の市場
ドパガキは、情緒を食べる。
正確に言えば、情緒の「落差」を食べる。
平らな日常では、満足できない。緩やかな幸福では、足りない。急激な高揚と、急激な絶望。その落差が、一番おいしい。
ある夜、僕は路地裏で一人の男を見つけた。
男はスマホを握りしめ、画面を見つめたまま、震えていた。通知音が鳴るたび、表情が変わる。喜び、不安、期待、焦燥。短いサイクルで、何度も何度も。
僕は近づいた。
「おいしいね」
男は顔を上げた。目が赤かった。
「誰だお前」
「ドパガキだよ」
男は理解できなかった。当たり前だ。ドパガキは、説明できる存在じゃない。ただ、そこにいる。情緒の循環が濃い場所に、自然と湧いてくる。
僕は男の肩に手を置いた。
その瞬間、男の感情が僕の中に流れ込んできた。
スマホの向こうにいる誰かへの執着。既読がつかない焦り。既読がついたときの安堵。安堵の直後に訪れる「次はどうする」という不安。
循環していた。
完璧な循環だった。
僕はそれを飲み込んだ。甘くて、苦くて、熱くて、冷たかった。男の表情が、ふっと薄れた。スマホを握る手が緩んだ。
「……なんか、急にどうでもよくなった」
男はぼんやりと呟いて、歩き去った。
僕は満足した。
でも、すぐに物足りなくなった。
もっと濃いものが欲しい。もっと激しい落差が欲しい。
第三章 循環の設計者
ドパガキは、ただ待つだけじゃない。
情緒の循環を「作る」こともできる。
ある日、僕は小さなアパートの一室に住む女の子を見つけた。彼女は毎日、同じ時間に同じ動画を見ていた。泣ける動画。笑える動画。怒りを煽る動画。順番に、規則正しく。
彼女は自分で循環を作っていた。
でも、まだ弱い。
僕は彼女の部屋に入った。鍵なんて、情緒の濃い場所では邪魔にならない。
彼女は僕を見ても、驚かなかった。すでに、何かに慣れてしまっていたから。
「あなた、何?」
「循環を濃くしてあげる」
彼女は少し微笑んだ。
「お願い」
僕は彼女の日常に、小さな「事件」を仕込んだ。
友人からの既読無視。仕事の些細なミス。偶然見た、元恋人の幸せそうな写真。すべて、計算されたタイミングで。
彼女の情緒は、急に激しくなった。
夜中に泣き、朝には怒り、昼には虚無、夕方にはまた希望。
美しい循環だった。
僕は毎日、少しずつそれを味わった。彼女の部屋の空気が、甘く重くなっていくのがわかった。
ある夜、彼女が言った。
「ねえ、これって、ずっと続くの?」
「続くよ。人間は、それを求めてるから」
「でも……疲れた」
「疲れるから、また回るんだよ」
彼女は俯いた。
「私、もう止まりたい」
僕は首を振った。
「止まったら、消えるよ。情緒が止まると、人間は自分じゃなくなる」
彼女は泣いた。泣きながら、またスマホを開いた。次の刺激を探し始めた。
僕は満足した。
でも、また物足りなくなった。
第四章 原点
ドパガキは、どこから来るのか。
僕は、かつて人間だった。
名前があった。家族がいた。普通の感情があった。
ある日、僕は「足りない」と感じ始めた。
普通の幸せが、薄く感じられた。普通の悲しみが、物足りなかった。もっと強いものが欲しくなった。もっと激しい落差が欲しくなった。
だから、自分で作った。
嘘をついた。喧嘩を売った。関係を壊した。修復した。また壊した。
情緒の循環を、意図的に回し続けた。
周囲の人間は離れていった。僕は一人になった。でも、循環は止まらなかった。むしろ、一人になってからのほうが、濃くなった。自分の中だけで、無限に回せたから。
ある夜、僕は鏡を見た。
鏡の中の自分は、もう人間じゃなかった。目が、情緒の色に染まっていた。喜びの赤。悲しみの青。怒りの黄。寂しさの紫。それらがぐるぐると回っていた。
「あ、なった」
その瞬間、僕はドパガキになった。
第五章 終着点のない循環
今、僕は街を歩いている。
情緒の濃い場所を、嗅ぎ分けながら。
カップルが喧嘩している路地。受験生が合格発表を待っている交差点。SNSで炎上しているカフェの片隅。
どこにでも、循環はある。
人間は、本能的にそれを求める。平穏を望むと言いながら、心の奥では「何かが起きてほしい」と願っている。ドラマが欲しい。物語が欲しい。高低差が欲しい。
ドパガキは、その願いを叶える存在だ。
突き詰めた存在だ。
僕は今日も、誰かの情緒を少しだけ濃くして、味わう。
味わったあとは、また次を探す。
止まらない。
止められない。
止まった瞬間に、ドパガキは消えるから。
情緒の循環を求める人間の本能を、突き詰めた存在。
それが、僕だ。
雨がまた降り始めた。
水たまりに映る街灯が、ゆらゆらと揺れている。
僕は、そこに立っていた。
同じ場所。同じ時間。同じ姿勢で。
循環は、まだ続いていく。




