今世こそ姫になりたい元男役スター令嬢、兄の身代わりで男装したら王太子に溺愛されました
今世こそ姫になりたいのに、兄の身代わりで男装したら王太子に跪かれました ~「君の最初の一曲は私に」と言われましても、私はドレスが着たいんです!~
「リリアーナ。お前、今日からリオンになれ」
書斎に呼び出された私に、父はそう言った。
私は、聞き間違いだと思った。
なぜなら明日、私は社交界にデビューするはずだったからだ。
淡い菫色のドレス。
胸元には、亡き母の遺品である白薔薇のレース。
髪には、小さな真珠の飾り。
それを身につけ、王宮の大広間に立ち、見知らぬ貴公子に手を取られて、生まれて初めてのワルツを踊る。
それが、私の十六年間で、たった一つの夢だった。
「お父様。今、なんと?」
「リオンが、失踪した」
父の声は震えていた。
「叔父ベルナールの動きを探って、領地の方へ向かったらしい。手紙が一通だけ届いた。三か月、戻れぬと」
私は息を呑んだ。
双子の兄、リオン。
私と顔立ちがそっくりで、銀がかった金髪に、同じ薄紫の瞳をしている。
「だから、その間、お前にリオンになってほしい」
「は?」
「家督が、危ういのだ」
父はそう言って、机に額をつけた。
「叔父は本家の財産を狙っている。リオンが不在と知れれば、すぐに『当主の血筋が頼りない』と騒ぎ立てる。社交界での力関係が崩れる。三か月。たったの三か月でいい」
私は、目の前が暗くなった。
そして、声に出して叫んだ。
「嫌です! 私は明日、ドレスを着るんです!」
◇◇◇
そう。
私は、ドレスを、着たいのだ。
なぜなら、私には前世の記憶があるからだ。
前世の私は、女性だけで構成された歌劇団――星都歌劇団の男役スターだった。
銀色の燕尾服に身を包み、燭台の光の中で完璧な王子様を演じ続けた。
舞台の上では、私は誰よりも凛々しく、誰よりも華やかで、誰よりも完璧な貴公子だった。
娘役の手を取り、跪き、薔薇を差し出し、最後の口づけまで、全部、私の役目だった。
毎晩、客席の女性たちはため息をついた。
私は、その視線の中心で笑っていた。
――けれど。
舞台が終わり、楽屋で衣装を脱ぐたびに、私はずっと、ある一人を羨ましく思っていた。
私の隣で、ふわふわのドレスを着て、私に手を取られていた娘役の彼女を。
私は、本当は、あちら側に立ちたかった。
フリルとレースのドレスを着て。
燭台の光に照らされて。
誰かに「お嬢さん」と呼ばれ、手を取られたかった。
けれど私の身長と顔立ちと声は、最後まで男役のものだった。
私は、姫を演じることなく、過労で死んだ。
そして、転生した。
ローゼンフェルト伯爵家の娘、リリアーナとして。
生まれた瞬間に、私は心の中でガッツポーズをしたものだ。
――今世こそ、私は、姫になる。
そう誓って、十六年。
明日、ようやく、その夢が叶うはずだったのだ。
「リリアーナ。頼む」
父の声で、私は現実に引き戻された。
「ローゼンフェルト家は、お前の母が愛した家だ。あの人の遺した家を、私はどうしても守りたい」
ずるい、と思った。
母の話を出されたら、私は弱い。
菫色のドレスに白薔薇のレースを縫いつけてくれたのも、ほかでもない、亡き母自身だったから。
『リリィ。この夜だけは、お前が主役よ』
母の最後の声が、耳の奥でよみがえった。
私は、深く息を吐いて、父を見下ろした。
「……条件があります、お父様」
父が顔を上げる。
「四つ。聞いていただけるなら、リオンになります」
「言ってくれ」
「一つ。期間は三か月。一日でも延長は認めません」
「ああ」
「二つ。兄が戻ったら、即座に降ります」
「もちろんだ」
「三つ。三か月後の白薔薇舞踏会には、私はリリアーナとして出ます。母の白薔薇のドレスを着ます。何があっても、これだけは譲りません」
「……分かった」
「四つ」
私は、ここでひと呼吸置いた。
「私の結婚相手と、これから先の生き方は、私が選びます。叔父にも、お父様にも、決めさせません」
父は、しばらく黙っていた。
それから、もう一度、深く頭を下げた。
「全て、約束しよう」
私は、踵を返して書斎を出た。
廊下に出た瞬間、天井を仰いで、心の底から呻く。
なんで。
よりにもよって、明日。
◇◇◇
支度部屋に戻ると、侍女のミレーヌが、既に何かを察した顔で待っていた。
私の専属侍女である彼女は、私より三つ年上で、淡々とした表情と冷静な毒舌が売りの女性だ。
「お嬢様」
「言わないで」
「ご事情、お聞きしました」
「だから言わないで」
「リオン様のお召し物、用意してございます」
私は、その場に膝から崩れ落ちた。
「ミレーヌ。私の菫色のドレスは」
「丁重にしまっておきます。三か月後、必ず袖を通せますように」
ミレーヌは、静かに、けれど確かな声で言った。
その声に、私は少しだけ慰められて、立ち上がった。
そして、観念して、兄の服に袖を通した。
白いシャツ。
銀の刺繍が入った濃紺のジャケット。
膝丈のブーツ。
長い髪は後ろで一つに束ね、銀のリボンで結んだ。
鏡の前に立つ。
そこにいたのは、前世で散々見慣れた、完璧な王子様だった。
ミレーヌが、私の背後で、なんとも言えない顔をした。
「お嬢様」
「言わなくていい」
「お嬢様。男装が似合わない要素を探す方が難しゅうございます」
「言ったわね? 今、言ったわね? 言わなくていいって言ったのに言ったわね?」
「申し訳ございません。事実なので」
私は、鏡の中の自分を睨みつけた。
似合いすぎている。
似合いすぎているのが、最高に腹立たしいわ。
その夜、私は枕の下に菫色のドレスの端切れを忍ばせて、ふて寝した。
◇◇◇
翌朝、私は「リオン・ローゼンフェルト」として、王宮に出仕した。
兄は数か月前から、若年貴族の登城名簿に名を連ねていた。
ローゼンフェルト家の跡取りとしての顔見せ。
そういう、形式的な役目だ。
馬車を降りた瞬間、私の心臓は、確かに一度跳ねた。
王宮は、想像以上に広い。
白い大理石の柱が立ち並び、磨かれた床に陽光が反射し、礼装の貴族たちが行き交う。
新人貴族としての挨拶のため、私は大広間に通された。
入った瞬間、視線が、私に集中した。
数百人の貴族が、一斉に、新入りの私を値踏みする視線。
普通の十六歳の令嬢なら、足が震える場面だろう。
――けれど。
私は、その視線を浴びた瞬間、悟った。
「なんだ。舞台より、ずっと狭いじゃない」
前世の客席は、もっと広かった。
燭台の光は、もっと熱かった。
向けられる視線の量は、ここの比ではなかった。
私は、自然に背筋を伸ばし、顎を引き、半歩前に踏み出した。
足音は鳴らさない。
けれど、確かに「歩いている」という存在感だけは、相手の網膜に刻みつける。
舞台仕込みの歩き方。
風を纏う、と団員から呼ばれていた、あの歩き方。
ざわり、と空気が動いた。
私が玉座の前まで歩み出ると、貴族たちの視線は、もはや値踏みではなかった。
彼らはただ、見惚れていた。
国王陛下の前で、私は片膝をついた。
頭を垂れる角度。
手の置き方。
声の通る位置。
全て、舞台で叩き込まれた所作だ。
「ローゼンフェルト伯爵が嫡男、リオン・ローゼンフェルトにございます。陛下の御前に参じましたこと、無上の光栄に存じます」
声を出した瞬間、大広間全体が、しん、と静まり返った。
国王陛下が、満足げに笑う。
「うむ。よい。実によい。ローゼンフェルト伯。よき跡取りを持ったな」
父が玉座の脇で、複雑な顔をしていた。
私の内心も、複雑だった。
ありがとうございます、陛下。
でも私、本当はあなたの御前で、ドレスのスカートを膨らませて挨拶したかったんです。
そう叫びたい気持ちを、私は完璧な微笑みで覆い隠した。
そして、立ち上がって振り返ったとき。
私は、初めてその人と目が合った。
玉座の右斜め後ろ。
銀髪に、青灰色の瞳。
礼装に最低限の装飾しかつけていないのに、誰よりも目を引く長身の青年。
王太子アレクシス・ヴァルフォード殿下。
冷徹。
無表情。
観察眼が鋭すぎる。
そう社交界で囁かれている人物。
そして、その彼が。
私を見て、ほんの僅かに、目を細めた。
笑った、のではない。
獲物を見つけた、という顔だった。
私は背筋に、すうっと冷たいものが走るのを感じた。
ちょっと待って。
私、今日は壁のシミになる予定だったんですけど。
◇◇◇
その日の午後。
王宮の回廊で、事件は起きた。
私が出仕初日の挨拶回りを終え、休憩のために大広間を出ようとしたとき。
少し離れた回廊の先で、令嬢たちの群れが小さくざわめいた。
中央にいるのは、いかにも気の強そうな高位令嬢。
その足元で、小柄な令嬢が、ハンカチを取り落としていた。
刺繍入りの、白いハンカチ。
端には、小さな菫の花が縫い取られている。
「あら、ごめんあそばせ。気がつきませんでしたわ」
高位令嬢のわざとらしい声。
小柄な令嬢の頬が、屈辱で赤くなった。
その後ろで、にやにやと笑っている取り巻きたち。
そして、ちょうど通りかかった年配の男性貴族が、無造作にハンカチへ足を踏み出そうとした。
考える前に、私の身体は動いていた。
私は数歩で距離を詰め、踏まれる寸前のハンカチを拾い上げた。
片膝をつき、小柄な令嬢に差し出す。
「お怪我はありませんか、レディ」
声が、自然と低くなる。
それは、舞台で娘役を抱き起こすときの、私の十八番だった。
「大切なものなのでしょう。汚れる前でよかった」
そっと添えるように、ハンカチを彼女の小さな手に戻す。
彼女の指先が震えていたから、私はその手を、ほんの一瞬だけ、両手で包んだ。
「もう大丈夫です。レディは、何も悪くない」
小柄な令嬢の目から、ぽろり、と涙がこぼれた。
それを合図に、回廊にいた令嬢たちの間で、一気に空気が爆ぜる。
「いまの、見て?」
「リオン様……ローゼンフェルト家の」
「跪いたわ」
「跪いたわよ、跪いたわよ」
「あの、目」
「私、明日からあのお方の名前を毎晩唱えて眠るわ」
待って。
待って待って待って。
違う。
違うのだ。
私は、令嬢たちをときめかせたいわけではない。
私がときめかされたい側なのだ。
なのに、どうして私の身体は、勝手に膝をつき、勝手に微笑み、勝手に「お怪我はありませんか、レディ」などと囁いているのか。
前世の職業病が、今世の夢を全力で邪魔してくる。
私は心の中で頭を抱えながら、表情だけは涼やかに立ち上がった。
高位令嬢は、私と目が合うと、さっと顔を背けた。
私は、もう一度だけ小柄な令嬢に微笑みかけて、その場を離れようとした。
そのとき。
回廊の柱の陰から、低い声が降ってきた。
「――誰にその所作を、習った?」
王太子殿下だった。
いつから見ていたのか。
腕を組んで柱に背を預け、青灰色の瞳が、まっすぐに私を捉えていた。
私は、咄嗟に微笑んだ。
「特別なことは何も。ただ、妹がおりますので。女性には常に敬意を払えと、家でも教えられてまいりました」
我ながら、苦しい言い訳だった。
殿下は、何も言わなかった。
ただ、ふっ、と短く息を吐いた。
笑った、のだ。
あの冷徹王太子が。
「リオン・ローゼンフェルト」
殿下が、私の名を呼んだ。
「明日から、私の側近見習いとして来い」
「は」
私の口から、令嬢らしくない声が漏れた。
「殿下。それは、あの、私のような新参者には、過分な――」
「過分ではない。お前が必要だ」
殿下は、それだけ言って、踵を返した。
銀髪が、回廊の光の中で揺れる。
私は、その背中を見送りながら、心の中で絶叫した。
壁のシミ計画、終了。
無理。
無理です。
私、毎日この方の隣で、完璧な貴公子をやらされるんですか。
私のドレス計画、どうなるの。
◇◇◇
その日から、私の「リオンとしての日々」が始まった。
朝、王宮に出仕する。
殿下の隣で、書類を捌く。
時折、舞踏会や茶会に同行する。
夜、屋敷に戻る。
ミレーヌに「今日も令嬢を泣かせてきたのですか」と冷たく聞かれる。
ふて寝する。
その繰り返し。
殿下は、不思議な人だった。
冷徹と噂されていたのに、私の前ではよく喋った。
いや、喋るというより、観察した感想を口に出す、と言うべきか。
「リオン。お前の歩き方は、騎士のものではないな」
「左様でございますか」
「足音を立てない。けれど、存在感はある。まるで、自分が見られていることを知っている者の歩き方だ」
「恐縮にございます」
「……お前は、誰の視線にも、慣れすぎている」
私は、内心、頬を引きつらせた。
冷徹王太子のくせに、観察眼が鋭すぎる。
というか、もう少し書類を見てくださいませんか、殿下。
けれど、嫌な観察ではなかった。
殿下の視線は、いつも、私の「何か」を探そうとしていた。
仮面の継ぎ目を、指先で確かめるような視線。
ある日、殿下がぽつりと言った。
「リオン。お前は、完璧な仮面を被っているな」
私は、ペンを置く手を止めた。
「だが、その奥にいる誰かの方が、私は気になって仕方がない」
私は、咄嗟に微笑んだ。
舞台仕込みの、何も映さない微笑みだった。
「殿下は、私を買いかぶりすぎでございます」
「そうだろうか」
殿下は、私を見なかった。
窓の外の白薔薇の庭を見つめながら、独り言のように呟いた。
「私には、人を惹きつける華やかさがない、と言われ続けてきた。王太子としては優秀でも、人の心を動かす力に欠ける、と」
私は、息を呑んだ。
「だから、お前のような人間に出会うと、不思議でならない。立っているだけで、視線を集める。何をするでもなく、人の心を温める。それは、生まれつきのものなのか。それとも――どこかで、必死に磨いてきたものなのか」
返事ができなかった。
殿下は、それ以上何も言わず、再び書類に目を落とした。
私は、自分の手元の羽ペンが、微かに震えているのに気がついた。
この方は、危険だ。
近づきすぎたら、きっと、全部見抜かれる。
◇◇◇
そんなある日、屋敷に、叔父が来た。
ベルナール叔父。
父の弟で、分家の当主。
本家の財産と家督を、虎視眈々と狙っている男。
私は、書斎で叔父と相対した。
「リオン。久しいな」
叔父は、私を上から下まで舐めるように見た。
「ふむ。少し、雰囲気が変わったか」
「気のせいでございましょう、叔父上」
「父上の体調も思わしくないようだ。お前も若いのに大変だな。何か困ったことがあれば、私を頼れ。財産管理など、未熟なお前一人では荷が重かろう」
来た。
本題はそれか。
私は、リオンとしての低い声で答えた。
「ご厚意、痛み入ります。ですが、当家のことは、当家で。父も健在ですので、ご心配には及びません」
叔父の片眉が、ぴく、と動いた。
「ところで、リオン」
話題を変える、というには急すぎた。
「リリアーナの白薔薇舞踏会のドレス、随分と贅を凝らしておるそうだな」
私は、内心、舌打ちした。
「亡き義姉上の遺品のレースまで使うとか。あれは家宝だ。一夜の宴のために潰すなど、正気の沙汰ではない」
叔父の声には、明らかな嘲りが滲んでいた。
「女の舞踏会など、家の役に立たぬ飾り事だ。リリアーナとて、年頃の娘。適当な貴族へ嫁がせれば、それなりの結納金も入る。ドレスに金をかけるより、よほど家の益になるとは思わぬか」
私は、机の下で、拳を握りしめた。
ああ。
私は今、確実に、怒っている。
母が、病床で震える指でレースを縫っていた夜の光景。
『リリィ。この夜だけは、お前が主役よ』
そう囁いた、あの細い声。
それを、よりにもよって、この男が。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
リオンとしての、冷ややかな視線を作って。
「叔父上」
「ん?」
「妹の晴れ舞台を無駄と切り捨てる方に、我が家の財産管理は任せられません」
部屋の温度が、一段下がった。
「あれは、亡き母が、最後の力で妹のために遺したものです。それを『一夜の飾り』と呼ぶ方に、ローゼンフェルトの誇りを語る資格はない。お引き取り願います」
叔父の顔が、赤くなり、それから青くなった。
「……生意気な小僧め。少し王宮に出入りした程度で、増長したか」
叔父は、捨て台詞のように呟いた。
「いいだろう。白薔薇舞踏会には、私も招かれている。当日、リリアーナがどう振る舞うか、楽しみにしているぞ。年頃の娘に相応しい縁談も、用意してやらねばな」
私は、にっこり笑った。
内心は氷点下だった。
「ええ、ぜひ。お楽しみに」
叔父が去ったあと、ミレーヌが書斎に入ってきた。
「お嬢様。先ほどの叔父様、明らかに白薔薇舞踏会で何か仕掛けるおつもりです」
「分かってる」
「それと」
ミレーヌは、懐から、小さく折りたたまれた紙を取り出した。
「リオン様の書斎の机の裏から、これが」
それは、暗号めいた数字の羅列だった。
最後に、兄の筆跡で一文だけ走り書きがあった。
『叔父の不正帳簿、領地の蔵にあり。三か月後、必ず証拠を届ける』
私は、その紙を握りしめた。
兄。
あなた、こんな大事なことを、私に何も言わずに。
でも――やっと、繋がった。
兄の失踪。
叔父の動き。
私の身代わり。
そして、白薔薇舞踏会。
全部、一本の糸で繋がっている。
私は、ミレーヌに紙を返した。
「ミレーヌ。父に渡して。それから、白薔薇舞踏会までに、兄から証拠が届くように、信頼できる早馬を出して」
「畏まりました。お嬢様」
「それから、ね」
「はい」
「私のドレス。仕立て、絶対に間に合わせて。叔父の好きにはさせない」
ミレーヌが、初めて、少しだけ笑った。
「お任せくださいませ。あの方の鼻を明かす機会を、私も心待ちにしておりました」
◇◇◇
白薔薇舞踏会まで、残り十日。
その日、殿下に呼び出されたのは、王宮の小ホールだった。
「ダンスの稽古をする」
殿下は、そう言った。
「私は、舞踏会で必ず一曲は踊らねばならぬ立場だ。だが、相手によって癖が違う。お前を相手に、調整しておきたい」
「私で、よろしいので?」
「お前以外に頼めぬ。お前のリードは、貴族たちの中で群を抜いていると評判だ」
評判になっているらしい。
私の、ダンスのリードが。
これは、リードする側の話だ。
される側ではない。
私は、内心、また泣きそうになった。
けれど、命令とあれば仕方ない。
私は手袋を整え、殿下の前に立ち、自然と「導く側」の姿勢を取った。
「では、殿下。お手を」
「うむ」
殿下の長い指が、私の手に重なった。
驚くほど、温かい手だった。
音楽はない。
小ホールには、私と殿下の二人だけ。
窓から差し込む午後の光が、磨かれた床に、白い四角を描いている。
私は、殿下の腰に手を回し、ステップを踏み始めた。
舞台でやったように。
歌劇団の娘役を、何百回と回したように。
完璧に、優雅に、相手を不安にさせないように。
数歩、踊ったところで、殿下が、ふと、言った。
「リオン」
「はい」
「お前は、誰かを導くことに、慣れすぎている」
ターンの瞬間、殿下の青灰色の瞳が、私を捉えた。
「だが、時折、導かれる側に焦がれているような目を、する」
私の足が、一瞬、止まりかけた。
殿下は、止めなかった。
むしろ、ステップを引き継ぐようにして、私を、ほんの僅かに、引き寄せた。
「お前が誰の名を名乗っていようと、私が見ているのは、その奥にいる、お前自身だ」
私は、息を吸うのを忘れた。
舞踏室の窓から、白薔薇の香りが、ふわりと流れ込んだ。
殿下は、静かに、続けた。
「白薔薇舞踏会には、私も出る。そこで、リオンの双子の妹君にも、ぜひお目にかかりたい」
その瞬間、私は確信した。
この方は、もう、ほとんど気づいている。
私は、無理やり微笑んだ。
「ええ。妹も、殿下にお目にかかれるのを、楽しみにしておりますわ」
「楽しみにしている」
殿下は、踊りながら、ほんの少しだけ、目を細めた。
「リオン。それから、リリアーナ嬢」
私の指先が、震えた。
「君が誰であれ、私は、君の本当の望みを、知りたい」
ターンの最後で、殿下は、私の手の甲に、極めて短く、唇を寄せた。
それは、貴族同士の挨拶ではなかった。
明らかに、それ以上の意味を持つ仕草だった。
私の心臓が、不可逆な音を立てて、跳ねる。
ずるい。
ずるいですよ、殿下。
私は、ドレスを着る前なんですよ。
まだ、姫じゃないんですよ。
私が、私の人生で一番見たかった景色は、まだ、これからなんです。
◇◇◇
そして、白薔薇舞踏会の夜が、来た。
私の支度部屋には、午後早くから、何人もの侍女と仕立屋が出入りした。
ミレーヌが、最後の仕上げに、私の髪を結い上げる。
「お嬢様」
「うん」
「お顔を、お上げくださいませ」
鏡の前に、私は立たされた。
そこにいたのは。
真珠色のドレスを纏った、一人の令嬢だった。
裾には、母の白薔薇のレース。
胸元にも、同じレース。
腰の少し上に、淡い銀のリボン。
髪には、本物の白薔薇が三輪、編み込まれている。
私は、しばらく、何も言えなかった。
「お嬢様」
ミレーヌの声が、いつもより少しだけ、湿っていた。
「亡き奥様が、ご覧になっておられます。きっと」
私は、頷くことしかできなかった。
鏡の中の私は、男装の貴公子でも、男役スターでもなかった。
ただの、十六歳の、一人の令嬢だった。
ようやく。
本当に、ようやく。
私は、自分の姿に、囁いた。
「ねえ。ずっと、待たせてごめんね」
前世の私が、舞台袖でひっそりと羨ましがっていた、あの娘役の姿が、今、鏡の中にいた。
◇◇◇
王宮の大広間は、白薔薇で埋め尽くされていた。
天井のシャンデリアから、生花の白薔薇が吊り下げられ、柱の根元にも、白薔薇の花輪が巻きついている。
楽団が、まだ序曲を奏でていた。
私は、父にエスコートされて、大階段の上に立った。
「ローゼンフェルト伯爵令嬢、リリアーナ・ローゼンフェルト様」
侍従の声が、広間に響き渡った。
その瞬間。
広間中の視線が、私に、集中した。
舞台で何百回も浴びてきたはずの視線。
けれど、今夜のそれは、別物だった。
なぜなら、今夜の私は、演じていないからだ。
私は、ドレスの裾を軽く持ち上げ、ゆっくりと、階段を降り始めた。
一段、一段。
踵の高い靴が、初めてなのに、不思議と怖くなかった。
リオンとして三か月、王宮の磨かれた床を歩き続けた、あの感覚が、確かに私を支えていた。
ざわめきが、波のように広がる。
「あれが、ローゼンフェルト家の」
「リオン様の双子の妹君……」
「まあ、なんてお美しい」
「お兄様にどこか似て……いえ、これはこれで、全くの別人ね」
私は、内心、笑った。
ええ、別人なんですよ、皆様。
だって、私が私の人生で、初めて演じない夜なんですから。
階段を降りきったところで。
すっと、人垣が割れた。
その先に、いた。
叔父ベルナール。
そして、見たこともない、脂ぎった顔の中年貴族。
叔父が、私の前に進み出た。
「リリアーナ。実によく着飾ったな」
声には、嘲りが混じっていた。
「だが、いつまでもこんな子供じみた夢に浸っていられる年でもあるまい。ちょうどよい機会だ。こちらは、デュランド男爵。お前の結婚相手として、私が見繕った」
デュランド男爵とやらが、ねばつくような視線で、私の胸元から足先までを舐めた。
私は、半年前の私だったら、ここで震えていたかもしれない。
けれど、今夜の私は、違った。
なぜなら、私は三か月、リオンとして、もっとずっと厳しい視線の中を歩いてきたから。
私は、ドレスの裾を、わずかに摘んだ。
そして、舞台仕込みの、最高の微笑みを浮かべた。
「叔父様」
声を、ほんの少しだけ、高く、はっきりと。
広間中に届くように。
「私の人生を、帳簿の不足分に充てるおつもりでしたの?」
叔父の顔色が、変わった。
「な――」
「ローゼンフェルト本家の財産。兄リオンが追っていた、不正帳簿。領地の蔵に隠された、二重帳簿の写し。ご存じない、とは仰いませんわよね、叔父様」
ざわっ、と広間に動揺が走った。
叔父が、青ざめる。
「……何を、根拠に」
そのとき。
広間の奥から、低い、けれど、よく通る声が、響いた。
「根拠ならば、ここに」
人垣が、再び割れた。
王太子アレクシス殿下が、白い礼装で、まっすぐに歩いてきた。
その手には、革張りの分厚い書類束。
「ローゼンフェルト伯爵嫡男、リオン殿より、本日付で王家へ正式に提出された」
殿下は、書類を高く掲げた。
「ベルナール・ローゼンフェルト分家当主。本家の財産横領、二重帳簿による課税逃れ、そして、伯爵令嬢を悪徳貴族へ売り渡そうとした罪。三つ、合わせて告発する」
叔父の膝が、がくり、と落ちた。
「お、王太子殿下……お待ちを、これは何かの誤解で――」
「誤解の余地はない。私が直接、内容を確認した」
殿下の青灰色の瞳は、氷のように冷たかった。
「衛兵」
殿下の一言で、衛兵たちが叔父と男爵を取り囲んだ。
叔父は、最後に私を睨んだ。
「リリアーナ……お前、いつから……」
私は、ほんの少しだけ、首を傾げて微笑んだ。
「叔父様。今宵だけは、申し上げますわ」
ドレスの裾を、軽く払う。
「私の白薔薇舞踏会を、無駄と切り捨てたあなたの愚かさが、あなた自身を破滅させたのです」
叔父は、衛兵に引きずられて、広間から退場した。
ねばついた男爵も、同じ運命を辿った。
広間に残ったのは、純粋な拍手の音だった。
父が、ふらつくように、私のそばまで歩いてきた。
「リリアーナ。私は……お前に、何度も、無理を頼んだ」
「お父様」
「お前の三か月を、奪った」
父は、頭を下げた。
広間中の貴族の前で、伯爵が、自分の娘に。
「すまなかった」
私は、首を横に振った。
「お父様。私は、お父様を恨んではおりません」
そして、広間全体に届く声で、続けた。
「ですが、皆様の前で、一つだけ申し上げます」
私は、背筋を伸ばした。
「私は、誰かの代わりでも、家の道具でもありません。リリアーナ・ローゼンフェルトとして、自分の人生を、自分で選びます」
広間が、しん、と静まった。
そして、誰かが、最初に拍手を始めた。
それは、瞬く間に、広間中に広がった。
◇◇◇
拍手が静まった、そのとき。
楽団が、最初のワルツの前奏を、奏で始めた。
そして、広間の中央で。
王太子殿下が、片膝を、ついた。
純白の礼装が、白薔薇の海の中に沈むように。
銀髪が、シャンデリアの光に、淡く溶けるように。
殿下は、私を見上げて、微笑んだ。
冷徹と呼ばれた、あの方が。
「遅くなってすまない。待たせたな、私の姫」
私は、息を呑んだ。
「殿下……」
「リオン・ローゼンフェルトと、リリアーナ・ローゼンフェルト。同一人物だと、私は、随分前から気づいていた」
殿下は、私を、まっすぐに見ていた。
「ダンスを教えてくれた、あの日。私がそれを匂わせても、お前は逃げなかった。あの瞬間に、確信したのだ」
「……怒って、いらっしゃらないのですか」
「怒る? 何故」
殿下は、わずかに首を傾げた。
「男装の君も、ドレス姿の君も、どちらも君だ」
その言葉が、私の胸の、一番奥に、ふわりと届いた。
「君は、姫であり、騎士でもある。どんな過去を抱えていようと、どんな名を名乗っていようと、私は、その全てを、隣で見ていたい」
私の視界が、ゆっくりと滲んだ。
ああ。
前世で、私は、王子様を演じ続けた。
今世でも、私は、兄の代わりを演じた。
ずっと、ずっと、私は、誰かの代わりだった。
けれど、この方だけが。
演技の奥にいる、本当の私を、見てくれた。
殿下が、白い手袋に包まれた手を、私に差し出した。
「君の最初の一曲は、私に」
私は、震える指先で、その手に、自分の手を重ねた。
「喜んで、私の王子様」
殿下が、ゆっくりと、立ち上がる。
私の腰に、温かい手が添えられる。
楽団のワルツが、広間に広がる。
殿下は、私の手を取った。
男装していた時とは違う。
今の私は、真珠色のドレスを着たリリアーナだ。
けれど、その手の温かさだけは、ずっと同じだった。
ステップを踏み始めた瞬間、私は気づいた。
私は今、リードされている。
人生で、初めて。
舞台でも、リオンとしてでもなく、ただのリリアーナとして、誰かの手の中で、回されている。
殿下は、上手なリードだった。
私が躓きそうになるたび、ほんの僅かに、手の力で支えてくれる。
顔を上げると、目が合う。
微笑まれる。
「リリアーナ嬢」
「はい」
「私は、君に、これからもリオンでいてほしいとは、思わない」
「殿下」
「だが、君がもし、いつかまた、誰かを守るために、剣を取る側に立ちたくなったとき」
殿下は、私を、もう一度ターンさせた。
ドレスの裾が、ふわりと、白薔薇の海の中で、円を描く。
「そのときは、必ず、君を私の隣に置く。守られるだけの姫でも、守るだけの騎士でも、君に決めさせはしない。君は、その両方を選んでよい」
私は、笑った。
今度こそ、心から、笑った。
「殿下」
「ああ」
「私、欲張りでも、よろしいのですか」
「君が、欲張らないでどうする」
殿下が、ふっ、と短く笑った。
それは、私がリオンとして三か月の間、殿下から引き出そうとして、ついに一度も見られなかった、本物の、嬉しそうな笑顔だった。
◇◇◇
その夜、私は、人生で初めて、誰かにエスコートされて、舞踏会の階段を降りた。
人生で初めて、人前で、誰かに手を取られて、ワルツを踊った。
そして、人生で初めて、自分自身の名前で、自分の未来を、選び取った。
前世で私は、燭台の光の中で、誰かに手を差し出す側だった。
今世の私は、シャンデリアの下で、誰かに手を取られる側になった。
けれど、これからの私は、たぶん、その両方を持つのだと思う。
姫にも、騎士にもなれる、私自身として。
ワルツの最後の音が、ゆっくりと、広間に消えていく。
殿下が、私の手を、両手で、そっと包んだ。
そして、その指先に、もう一度、唇を寄せた。
今度のそれは、回廊の時のような、確かめるような口づけではなく、約束のような、長い口づけだった。
私は、その温度を、生涯、忘れないだろうと思った。
今世こそ姫になりたいと願った私は、最高の王子様に手を取られながら、私自身の足で、光の中へ、踏み出した。
― 了 ―
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