第6話:黒縄地獄・歪みの世界
門をくぐった瞬間、世界が歪んだ。
視界が捻じれる。
上下左右の感覚が消える。
天井が床になり、床が壁になり、壁が天井になる。
「うっ……」
リュウジは思わず膝をつく。
平衡感覚が狂う。
吐き気がする。
「……何だ、これ……」
目を閉じる。
深呼吸。
落ち着け。
ゆっくりと目を開ける。
視界は——まだ歪んでいる。
だが、少しずつ慣れてきた。
リュウジは立ち上がる。
周囲を見渡す。
そこは——
暗かった。
等活地獄の赤い空とは対照的に、黒縄地獄の空は暗く重い灰色。
光はあるが、薄暗い。
まるで夕暮れのような、不気味な明るさ。
地面は黒い石で覆われている。等活地獄と同じだ。
だが、その上に——
黒い縄が張り巡らされている。
無数の縄が、地面から空中へ、建物から建物へ、複雑に絡み合いながら伸びている。
まるで蜘蛛の巣のように。
「……これが、黒縄か」
リュウジは縄の一本に近づく。
太さは指ほど。
黒く、表面は粗い。
触れてみる——
瞬間、縄が動いた。
蛇のようにしなり、リュウジの手首に巻きつく。
「!」
リュウジは咄嗟に手を引く。
だが縄は離さない。
締め付けてくる。
「ちっ!」
リュウジは蒼刃を抜き、縄を斬る。
ザシュッ。
縄が切れる。
手首から縄が落ちる。
だが——
切られた縄の断面から、黒い液体が滴る。
血?
いや、違う。
もっと粘度の高い、ドロドロとした液体。
「……触れない方がいいな」
リュウジは縄から距離を取る。
黒縄は罠だ。
触れれば拘束される。
気をつけなければ。
リュウジは慎重に歩き始めた。
縄を避けながら、前へ進む。
歩き始めて十分ほど経った頃、リュウジは異変に気づいた。
体が、妙に軽い。
まるで水中にいるような浮遊感。
足が地面を蹴っても、ふわりと浮くような感覚。
「……何だこれは」
リュウジは歩みを止める。
そして——
次の瞬間、体が重くなった。
急に。
膝が折れそうになるほどの重さ。
まるで全身に鉛を纏ったような。
「ぐっ……」
リュウジは歯を食いしばる。
身体強化:力を発動し、なんとか立っている。
そして——
また軽くなる。
体が浮きそうになる。
「……場所によって、体の重さが変わるのか?」
リュウジは周囲を観察する。
地面には特に変わったところはない。
だが、確かに体への引っ張られ方が場所ごとに違う。
ある場所では軽く、ある場所では重い。
「……厄介だな」
リュウジは身体強化:全を軽く発動する。
以前なら消費が激しくて長時間は使えなかった。
だが、秦広王の報酬により、消費が半減している。
これなら、常時発動も可能だ。
体が安定する。
体の重さの変化にも対応できる。
「よし……」
リュウジは再び歩き始めた。
身体強化を維持したまま、慎重に進む。
更に進むと、建物が見えてきた。
等活地獄と同じく、黒い石で作られた建造物。
だが、形が歪んでいる。
傾いている建物。
捻じれている塔。
上下が逆さまになっている門。
「……空間が、歪んでるのか」
リュウジは建物に近づく。
だが、近づくほど違和感が強くなる。
距離感が掴めない。
十メートル先に見えた建物が、歩いても歩いても近づかない。
いや、逆に遠ざかっている?
「……どういうことだ?」
リュウジは立ち止まる。
そして——
試しに、後ろに下がってみる。
すると——
建物が近づいてきた。
「……逆、なのか?」
リュウジは苦笑する。
前に進めば遠ざかり、後ろに下がれば近づく。
空間が歪んでいる。
「……これは、慣れるまで時間がかかりそうだな」
リュウジは慎重に、後ろ向きに歩き始めた。
建物に向かって。
建物に到達すると、リュウジは中を覗いた。
暗い。
松明を取り出し、火を灯す。
オレンジ色の光が内部を照らす。
狭い空間。
だが、天井が——ない?
いや、天井はある。
だが、無限に高い。
まるで底なし沼を逆さまにしたような、終わりのない空間。
「……どうなってんだ、ここ」
リュウジは建物の中に入る。
一歩、踏み出す。
すると——
上下が反転した。
リュウジの体が浮き上がり——いや、落ちていく。
天井に向かって。
「うおっ!」
リュウジは咄嗟に身体強化:跳を発動。
空中で体勢を立て直す。
そして——
天井に着地——いや、今は天井が床だ。
リュウジは逆さまに立っている。
だが、体はこちらを下にしている。
つまり——
「……上下が、入れ替わったのか」
リュウジは周囲を見渡す。
さっきまで床だった場所が、今は天井だ。
入口も、天井に——いや、上に見える。
「……出られるのか、これ?」
リュウジは試しに、入口に向かって跳んでみる。
身体強化:跳を使い、高く跳躍。
入口に手が届く——
瞬間、再び上下が反転。
リュウジは元の床に着地した。
建物の外だ。
「……跳べば、戻れるのか」
リュウジは建物を見上げる。
上下反転のギミック。
中に入れば天地が逆になる。
出るには、また跳ぶ。
「……ややこしいな」
リュウジは建物から離れた。
こんな場所で戦闘になったら、混乱する。
できるだけ避けたい。
リュウジは歩き続けた。
縄を避け、体の重さの変化に対応し、歪んだ空間を進む。
そして——
前方に、何かが見えた。
人影。
いや、人ではない。
獄卒だ。
等活地獄の牛頭や馬頭とは違う。
こちらは——人間に近い姿。
身長は二メートルほど。
全身が黒い革の鎧に覆われている。
手には——鞭。
黒い鞭を持っている。
鞭獄卒。
黒縄地獄の下級獄卒。
「……来たか」
リュウジは蒼刃を抜く。
獄卒が気づく。
こちらを見る。
そして——
鞭を振るう。
黒い鞭が空中を裂く。
リュウジは横に跳んで回避。
鞭が地面を叩く。
パシィン!
鋭い音。
地面に傷がつく。
「速いな!」
リュウジは身体強化:速を最大まで引き上げる。
視界がクリアになる。
獄卒の動きがスローモーションのように見える。
だが——
鞭が再び飛んでくる。
今度は複数。
いや、一本の鞭が——分裂している?
三本に分かれた鞭が、リュウジを狙う。
「ちっ!」
リュウジは地面に伏せる。
鞭が頭上を通過する。
そして——
鞭が黒縄に絡みつく。
周囲に張り巡らされた黒縄に。
鞭と黒縄が——融合した。
一体化して、更に長く、太くなる。
「!」
獄卒が鞭を引く。
黒縄ごと、リュウジに向かって振るう。
巨大な縄の鞭。
リュウジは横に跳ぶ。
だが——
縄が追従する。
まるで生きているかのように、リュウジを追いかけてくる。
「くそっ!」
リュウジは走る。
全力疾走。
縄が追ってくる。
そして——
リュウジは急停止。
振り返り、蒼刃を振るう。
縄を斬る。
ザシュッ!
縄が切れる。
だが——
断面から黒い液体が噴き出す。
リュウジにかかる。
「うっ!」
液体が肌に触れる。
熱い。
いや、冷たい?
いや、両方だ。
熱くて冷たい。
痛みが走る。
「ぐっ……」
リュウジはインベントリから水筒を取り出し、水で洗い流す。
液体が落ちる。
だが、肌が赤く腫れている。
「……毒、か」
リュウジはインベントリから解毒剤を取り出し、飲む。
腫れが引いていく。
だが——
獄卒が再び鞭を振るう。
今度は黒縄を使わない。
純粋な鞭の攻撃。
だが速い。
リュウジは避ける。
そして獄卒に向かって突進。
懐に飛び込む。
蒼刃を振るう。
獄卒の首筋を狙う。
だが——
獄卒が鞭で受ける。
ガキィン!
鞭が鋼鉄のように固い。
「硬ぇ!」
衝撃で剣が弾かれる。
獄卒が反撃してくる。
鞭が巻きつく。
リュウジの剣を持つ手に。
締め付けてくる。
「ちっ!」
リュウジは身体強化:力を追加発動。
筋力が爆発的に増す。
鞭を引きちぎろうとする。
だが——
鞭は切れない。
それどころか、更に締め付けてくる。
手が痺れる。
剣が落ちそうになる。
「……くそっ!」
リュウジは左手で鞭を掴む。
そして——
身体強化:全を発動。
速・力・跳・耐——全てを極限まで引き上げる。
体が光を纏う。
そして——
鞭を引きちぎった。
ブチッ!
鞭が切れる。
獄卒が怯む。
その隙に——
リュウジは獄卒に向かって突進。
蒼刃を振るう。
今度は脇腹を狙う。
革の鎧の隙間を狙う。
ザシュッ!
刃が刺さる。
手応えあり。
「おおおおっ!」
獄卒が苦痛の声を上げる。
リュウジは剣を引き抜き、再び斬りつける。
何度も、何度も。
獄卒が倒れる。
黒い煙が立ち上る。
「……はあ、はあ……」
リュウジは剣を下ろす。
身体強化:全を解除。
体が重くなる。
だが——
秦広王の報酬のおかげで、反動は以前より軽い。
疲労はあるが、動ける。
「……強くなってる、な」
リュウジは自分の体を確認する。
業焔を倒して得た身体能力の向上。
秦広王から得た身体強化の効率化。
確実に、以前より強くなっている。
「よし……」
リュウジは倒れた獄卒の場所を確認する。
アイテムが残っている。
水筒×1。
回復薬(小)×2。
「ありがたい」
リュウジはアイテムを回収する。
そして再び歩き始めた。
黒縄地獄の奥へ。
それから——
リュウジは黒縄地獄の外縁部を探索し続けた。
縄を避け、体の重さの変化に対応し、歪んだ空間を進む。
途中、鞭獄卒と三回遭遇した。
一対一なら勝てる。
だが、一対多は厳しい。
二体同時に現れた時は、逃げた。
等活地獄での経験が活きている。
無理はしない。
勝てる戦いだけを選ぶ。
そして——
リュウジは一つの建物を見つけた。
他の建物とは違う。
崩れていない。
しっかりとした造りの、塔のような建物。
高さは十メートルほど。
入口がある。
リュウジは慎重に近づく。
中を覗く。
暗い。
松明を灯し、中に入る。
内部は——
広い空間。
天井は高く、壁には奇妙な文様が刻まれている。
そして中央には——
何もない。
ただの空間。
「……何だここは?」
リュウジは周囲を警戒しながら進む。
だが、敵の気配はない。
罠の気配もない。
ただの——空き部屋?
「……休憩場所、か」
リュウジは建物の奥に進む。
壁に背を預ける場所を見つける。
ここなら、入口を監視できる。
敵が来てもすぐに気づける。
「……少し休むか」
リュウジは座り込んだ。
インベントリから携帯食料を取り出し、食べる。
そして水を飲む。
疲労が和らいでいく。
リュウジは目を閉じる。
だが、完全には眠らない。
浅い眠り。
物音がすればすぐに目を覚ます。
冒険者の技術だ。
どれくらい休んだだろうか。
リュウジは目を覚ました。
音がした。
足音。
複数の足音。
リュウジは即座に立ち上がる。
蒼刃を抜く。
建物の入口から——
鞭獄卒が入ってくる。
三体。
「……まずいな」
リュウジは身体強化:速を発動。
三対一は厳しい。
だが——
逃げ場がない。
建物の入口は一つだけ。
獄卒たちが塞いでいる。
「……やるしかねえ」
リュウジは身体強化:全を発動。
全力で戦う。
獄卒の一体が鞭を振るう。
リュウジは横に跳んで回避。
そして獄卒に向かって突進。
蒼刃を振るう。
だが——
もう一体の獄卒が横から鞭を振るう。
リュウジは剣で受ける。
ガキィン!
衝撃で後退する。
そして三体目が攻撃してくる。
鞭がリュウジの足に巻きつく。
締め付けてくる。
「ちっ!」
リュウジは身体強化:力で鞭を引きちぎる。
だが——
その隙に、一体目が攻撃してくる。
鞭がリュウジの脇腹を打つ。
「ぐっ!」
痛みが走る。
革の鎧を貫いて、肌に傷がつく。
血が流れる。
だが——
リュウジは止まらない。
一体目の獄卒に向かって突進。
蒼刃を振るう。
脇腹を斬る。
深く刺さる。
獄卒が怯む。
その隙に——
首筋を斬る。
何度も、何度も。
獄卒が倒れる。
黒い煙が立ち上る。
残り二体。
だが——
リュウジの体が限界に近い。
身体強化:全の消費。
以前より軽いとはいえ、長時間は持たない。
「……あと一分、か」
リュウジは二体目の獄卒に向かって突進。
だが——
二体が連携してくる。
一体が正面から、もう一体が横から。
鞭が同時に飛んでくる。
リュウジは地面に伏せる。
鞭が頭上を通過する。
そして——
リュウジは地面を蹴り、跳躍。
二体の獄卒の間を飛び越える。
空中で体勢を変え、一体の獄卒の背後に着地。
蒼刃を背中に突き立てる。
ザシュッ!
獄卒が苦悶の声を上げる。
リュウジは剣を引き抜き、首筋を斬る。
獄卒が倒れる。
黒い煙が立ち上る。
残り一体。
リュウジは最後の獄卒に向かって突進。
だが——
体が重い。
身体強化:全の限界。
もう持たない。
「……くそっ、あと少し!」
リュウジは最後の力を振り絞る。
獄卒が鞭を振るう。
リュウジは避ける。
そして懐に飛び込む。
蒼刃を振るう。
脇腹を斬る。
首筋を斬る。
何度も、何度も。
獄卒が倒れる。
黒い煙が立ち上る。
「……はあ、はあ……」
リュウジはその場に座り込んだ。
全身が痛い。
身体強化:全の反動。
だが——
勝った。
三体を倒した。
「……強くなってる、な」
リュウジは苦笑する。
等活地獄の時なら、三体同時は無理だった。
だが今は——
辛うじて、勝てる。
成長している。
リュウジは倒れた獄卒の場所を確認する。
アイテムが残っている。
水筒×3。
回復薬(小)×6。
リュウジはアイテムを回収する。
そしてインベントリから回復薬(小)を取り出し、飲む。
傷が癒える。
疲労は残るが、痛みは引く。
「……休むか」
リュウジは再び壁に背を預ける。
目を閉じる。
休憩する。
体力を回復させる。
どれくらい休んだだろうか。
リュウジは目を覚ました。
体は十分に回復している。
疲労も抜けている。
「よし……」
リュウジは立ち上がる。
インベントリを確認する。
回復薬、水、食料——揃っている。
鞭獄卒を倒して得たアイテムで、補給も十分。
「さて、次はどうするか」
リュウジは建物の外に出た。
黒縄地獄の風景は相変わらず変わらない。
暗い灰色の空。
黒い縄が張り巡らされた世界。
体の重さが変わる不安定な場所。
歪んだ空間。
だが——
少しずつ、慣れてきた。
縄を避けるコツ。
体の重さの変化に対応する方法。
歪んだ空間での移動方法。
「……もう少し探索してから、奥に進むか」
リュウジは外縁部を更に探索することにした。
鞭獄卒の強さは把握した。
一対一なら確実に勝てる。
一対多でも、身体強化:全を使えば何とかなる。
だが——
中層には、もっと強い敵がいるはずだ。
等活地獄の業焔のような、中ボス級の敵。
その前に、できるだけ準備を整える。
アイテムを集め、体力を万全にする。
そして——
「……空間の感覚に、慣れないとな」
リュウジは歩き始めた。
黒縄地獄の奥へ。




