第2話:等活地獄・灼熱の世界
門をくぐった瞬間、熱風が顔を叩いた。
息が詰まる。空気が熱い。まるで炉の中に放り込まれたような感覚。
「うっ……」
リュウジは思わず顔を背ける。
目の前に広がっていたのは、想像を絶する光景だった。
空は血のように赤く染まり、雲一つない。太陽はないが、空全体が発光しているかのように明るい。地面は黒い岩石で覆われ、所々に亀裂が走っている。その亀裂からは赤い光が漏れ、熱気が立ち上っている。
そして遠くには溶岩の川が流れていた。
赤く煮えたぎる溶岩。ゴボゴボと音を立てて泡が弾ける。川幅は十メートル以上。対岸は熱で霞んで見える。
「これが……等活、か」
リュウジは喉が渇いているのに気づいた。
インベントリから水筒を取り出し、一口飲む。温かい。この熱気の中では水もすぐに温まってしまう。
「まずいな……」
水筒は二つ。各スロットに最大九個まで格納できるが、現在は二つしかない。この環境では水の消費が激しくなる。節約しなければ。
リュウジは周囲を警戒しながら歩き始めた。
黒い岩石の地面は熱を持っていて、靴底越しに熱さが伝わってくる。長時間この上を歩けば、靴が溶けるかもしれない。
空からは絶え間なく悲鳴が聞こえてくる。
遠くから、近くから、四方八方から。
男の声、女の声、子供の声。
助けを求める声。
苦痛に喘ぐ声。
「……気が狂いそうだ」
リュウジは首を振る。
集中しろ。この環境に慣れなければ。
脱衣婆が言っていた。ここは等活——八つの世界の最初。
どんな場所なのか。
何が待っているのか。
答えはすぐに現れた。
前方に人影が見えた。
いや、人影が複数。
十人以上の集団。
リュウジは立ち止まり、身を低くする。岩陰に隠れ、様子を窺う。
距離は五十メートルほど。
人影たちは何かを取り囲んでいた。そして——
殴り合っている。
いや、殺し合っている。
素手で、石で、相手を殴りつけ、噛みつき、引き裂いている。
血が飛び散る。
肉が裂ける。
骨が砕ける。
そして——
一人が倒れた。
頭を砕かれ、動かなくなる。
死んだ。
だが次の瞬間——
光。
倒れた男の身体が淡く光り、傷が塞がっていく。
そして目を開ける。
蘇生した。
「……マジか」
リュウジは息を呑む。
脱衣婆が言っていたことは本当だった。
ここでは死んでも蘇る。
何度でも。
永遠に。
そして蘇生した男は、再び戦いに加わった。
さっきまで自分を殺した相手に飛びかかり、今度は自分が相手の首を絞める。
狂気。
それ以外に言葉が見つからない。
「……あれが、亡者か」
リュウジは静かに後退する。
近づかない方がいい。
脱衣婆が言っていた。生者は地獄では格好の標的だと。
あの亡者たちに見つかれば、間違いなく襲われる。
リュウジは迂回することにした。
岩陰を利用しながら、亡者の集団から離れていく。
幸い、亡者たちは互いに夢中で、リュウジには気づいていない。
百メートルほど離れたところで、リュウジは再び歩き始めた。
どれくらい歩いただろうか。
時間の感覚が掴めない。太陽がないため、時刻が分からない。
体感では一時間ほど経った気がする。
だが等活の風景は変わらない。
赤い空。
黒い岩石。
溶岩の川。
そして悲鳴。
リュウジは疲労を感じ始めていた。
熱気のせいだ。体力の消耗が早い。
身体強化を使えば多少は楽になるが、それも体力を消費する。下手に使うと、いざという時に動けなくなる。
「……休むか」
リュウジは大きな岩の陰に座り込んだ。
インベントリから携帯食料を取り出す。乾燥した肉と硬いパン。冒険者の定番食。
噛みながら、リュウジは状況を整理する。
ここは等活地獄。
八つの世界の最初。
ここを抜ければ、次は黒縄。
そして最後は無間。
全て抜けて、閻魔王の審判を受ければ、元の世界に戻れる。
「長い道のりだな……」
リュウジは水を一口飲む。
残り一本半。
このペースでは一日持たない。
水を手に入れる方法はあるのか。
溶岩の川では無理だ。
雨も降らない。
となると——
「敵を倒してドロップを期待するしかねえか」
だが脱衣婆は何もドロップしなかった。
ここの住人も同じかもしれない。
その時だった。
足音が聞こえた。
重い、ズシン、ズシンという足音。
「!」
リュウジは即座に立ち上がり、岩陰に身を隠す。
足音が近づいてくる。
そして姿を現したのは——
巨大な牛だった。
いや、牛頭人身。
身長は三メートルを超える。全身は筋肉質で、黒い毛皮に覆われている。頭は牛そのもので、巨大な角が二本生えている。
手には大きな棍棒を持っている。
獄卒。
脱衣婆が言っていた、地獄の番人。
「……やべえな」
リュウジは息を潜める。
獄卒は辺りを見回している。
何かを探しているようだ。
そして——
獄卒の視線がリュウジの方を向いた。
「……見つかった!」
獄卒が吠える。
「人間の匂いがするぞ!」
低い、唸るような声。
獄卒が棍棒を構え、リュウジの方に向かってくる。
「ちっ、仕方ねえ!」
リュウジは岩陰から飛び出し、蒼刃を抜く。
獄卒が棍棒を振り下ろす。
リュウジは横に跳んで回避。
棍棒が地面を叩き、岩石が砕け散る。
「パワーは凄いが、動きが鈍い!」
リュウジは身体強化:速を発動。
視界がクリアになり、動体視力が上がる。
獄卒の動きがスローモーションのように見える。
リュウジは獄卒の懐に潜り込み、蒼刃を振るう。
獄卒の脇腹を斬りつける。
手応えあり。
血が飛び散る。
「おおおおっ!」
獄卒が苦痛の声を上げる。
だが——
「硬ぇ!」
傷は浅い。
獄卒の皮膚は分厚く、筋肉も固い。
「やはり生者の武器では効かぬか!」
獄卒が棍棒を横薙ぎに振るう。
リュウジはバックステップで距離を取る。
棍棒が空を切る。
「……効かないわけじゃねえ。ただ、固いだけだ」
脱衣婆は完全に無効化した。
だが獄卒には傷をつけられる。
ならば——
「急所を狙えばいい」
リュウジは再び距離を詰める。
獄卒が棍棒を振り下ろす。
リュウジは身体強化:跳を追加発動。
跳躍力が極限まで高まる。
リュウジは獄卒の頭上を飛び越え、その背後に着地。
そして——
身体強化:力を追加。
筋力が爆発的に増す。
「はああああっ!」
リュウジは蒼刃を獄卒の首筋に叩き込んだ。
ザシュッ!
深く刺さる。
「ぐおおおおっ!」
獄卒が苦悶の声を上げる。
だがまだ倒れない。
「……タフだな!」
リュウジは剣を引き抜き、再び斬りかかる。
同じ箇所を二度、三度と斬りつける。
血が噴き出す。
そして——
獄卒が膝をついた。
「……ぐっ……人間……ごときに……」
そう呟いて、獄卒は倒れた。
黒い煙が立ち上る。
獄卒の身体が煙となって消えていく。
「はあ、はあ……」
リュウジは剣を下ろし、息を整える。
身体強化を三つ同時に使った。体への負担が大きい。
そして——
倒れた獄卒の場所に、何かが残っていた。
「!」
アイテムだ。
リュウジは駆け寄る。
そこには小さな革袋があった。
拾い上げて中を確認する。
水だ。
清水が入っている。
「……助かった」
リュウジはインベントリに格納する。
スロット6に水筒×3。
獄卒はアイテムをドロップする。
これは重要な情報だ。
「なら、獄卒を倒せば補給できる」
リュウジは少し安堵した。
だが同時に、新たな問題に気づく。
獄卒を倒すには身体強化を複数使う必要がある。
つまり、体力の消耗が激しい。
回復薬も有限だ。
効率的に戦わなければ、いずれ行き詰まる。
「……作戦を立てないとな」
リュウジは再び岩陰に座り込んだ。
休憩しながら、次の戦闘に備える。
十分ほど休んだところで、リュウジは再び歩き始めた。
だが今度は慎重に。
獄卒や亡者を見つけたら、まず観察する。
戦うべきか、避けるべきか。
判断してから行動する。
そうして進んでいくと、リュウジは気づいた。
等活地獄には、いくつかのエリアがあるらしい。
今いるのは外縁部。
亡者の数は多いが、獄卒は少ない。
だが遠くに見える山の方に行けば、より強い敵がいるのだろう。
「段階的に進むべきだな」
リュウジは方針を決めた。
まずは外縁部を探索する。
獄卒を倒して補給品を集める。
そして十分に準備が整ったら、内部に進む。
慎重に、確実に。
それが冒険者の鉄則だ。
それから数時間、リュウジは外縁部を探索した。
途中、三体の獄卒と遭遇した。
一体目は先ほどと同じ牛頭の獄卒。同じ戦法で倒した。
二体目は馬頭の獄卒。こちらは牛頭より速かったが、身体強化:速を最大まで引き上げることで対応した。
三体目は再び牛頭。だが今度は二体同時に現れた。
「……まずいな」
リュウジは即座に判断した。
二体同時は無理だ。
逃げる。
リュウジは全力で走り、獄卒たちを振り切った。
幸い、獄卒は足が遅い。身体強化:速を使えば簡単に逃げられる。
「……数が多い時は逃げるしかねえか」
リュウジは息を整えながら、戦術を見直す。
一対一なら勝てる。
だが一対多は厳しい。
となると——
「敵を孤立させる必要があるな」
罠を使うか。
環境を利用するか。
リュウジは周囲を見渡す。
溶岩の川。
あれを使えないか。
敵を誘導して、溶岩に落とす。
「……試してみるか」
リュウジは次の獄卒を探し始めた。
程なくして、一体の牛頭獄卒を発見した。
今度は溶岩の川の近くだ。
好都合。
リュウジは獄卒に気づかれないよう、慎重に近づく。
そして——
石を投げた。
獄卒の背中に当たる。
「何だ!」
獄卒が振り向く。
リュウジの姿を見つける。
「人間だ!」
獄卒が棍棒を構え、突進してくる。
リュウジは走る。
溶岩の川の方へ。
獄卒が追ってくる。
距離は十メートル。
八メートル。
五メートル。
川まであと少し。
そして——
リュウジは川の縁で急停止。
身体強化:速と跳を同時に発動し、真横に跳ぶ。
獄卒は止まれない。
慣性のまま、溶岩の川に飛び込む。
「うおおおおっ!」
獄卒の悲鳴。
溶岩が獄卒を飲み込む。
ジュウウウウという音。
そして——
獄卒は沈んでいった。
「……成功、か」
リュウジは息を吐く。
だが獄卒の身体は煙にならない。
つまり、アイテムはドロップしない。
「……溶岩に落としたらドロップなしか」
それは痛い。
補給品が手に入らない。
「となると、やっぱり正面から倒すしかねえのか……」
リュウジは舌打ちする。
楽な方法はないらしい。
それから更に数時間。
リュウジは外縁部を探索し続けた。
獄卒を五体倒し、水筒と回復薬(小)を手に入れた。
インベントリの状況は——
スロット1:蒼刃(片手剣)×1
スロット2:回復薬(小)×15(満タン)
スロット3:回復薬(中)×5
スロット4:解毒剤×3
スロット5:携帯食料×7(2個使用)
スロット6:水筒×5(3個補給)
スロット7:松明×9
スロット8:ロープ×1(血に汚染)
スロット9~15:空
補給は順調だ。
だが問題は体力。
獄卒一体を倒すごとに、身体強化を複数使う。
回復薬で傷は癒せるが、疲労は蓄積する。
「……限界が近いな」
リュウジは大きな岩の陰に座り込んだ。
休憩が必要だ。
できれば数時間、眠りたい。
だがここで眠るのは危険だ。
獄卒や亡者に襲われる可能性がある。
「……安全な場所を探すか」
リュウジは立ち上がり、周囲を見渡す。
そして、遠くに何かが見えた。
建造物。
黒い石で作られた、塔のようなもの。
「……あれは?」
リュウジは慎重に近づいていく。
獄卒や亡者を避けながら、建造物に向かう。
そして辿り着いたのは——
小さな祠だった。
高さ三メートルほど。入口は開いている。
中を覗く。
誰もいない。
床には何も置かれていない。
ただの空間。
「……ここなら、少しは休めるか」
リュウジは祠の中に入った。
入口を背にして座り、蒼刃を膝の上に置く。
いつでも抜けるように。
そして目を閉じた。
完全には眠らない。
浅い眠り。
物音がすればすぐに目を覚ます。
冒険者の技術だ。
どれくらい経っただろうか。
リュウジは目を覚ました。
音がした。
足音。
複数の足音。
リュウジは即座に立ち上がる。
祠の入口から外を覗く。
獄卒だ。
三体。
牛頭が二体、馬頭が一体。
そして——
こちらに向かってくる。
「……見つかった!」
リュウジは蒼刃を抜く。
三体同時は厳しい。
だが逃げ場がない。
祠の入口は一つだけ。
獄卒たちが入口を塞いでいる。
「……やるしかねえ」
リュウジは身体強化:全を発動させた。
速・力・跳・耐——全てのパラメータを極限まで引き上げる。
体への負担は大きいが、背に腹は代えられない。
「来い!」
リュウジは祠から飛び出した。
獄卒の一体が棍棒を振り下ろす。
リュウジは横に跳んで回避。
そして獄卒の脇腹を斬りつける。
深く刺さる。
だが次の獄卒が攻撃してくる。
リュウジはバックステップで距離を取る。
三体が同時に攻撃してくる。
棍棒の雨。
リュウジは全て避ける。
身体強化:全のおかげで、動きが常人を超えている。
だが——
「……体力が持たねえ!」
身体強化:全の消耗が激しい。
このままでは一分も持たない。
ならば——
「一体ずつ倒す!」
リュウジは一体の牛頭獄卒に狙いを定める。
その獄卒に向かって突進。
獄卒が棍棒を振るう。
リュウジは下を潜り抜け、獄卒の懐に飛び込む。
そして首筋に蒼刃を叩き込む。
一撃。
二撃。
三撃。
獄卒が倒れる。
だが次の瞬間——
背後から棍棒が飛んでくる。
「ちっ!」
リュウジは横に跳ぶ。
だが避けきれない。
棍棒がリュウジの肩をかすめる。
「ぐっ!」
痛みが走る。
肩が裂ける。
血が流れる。
だがリュウジは止まらない。
次の獄卒に向かう。
馬頭だ。
牛頭より速い。
だがリュウジも速い。
身体強化:全で、動きは互角以上。
リュウジは馬頭の攻撃を避け、カウンターを叩き込む。
首筋を斬る。
脇腹を斬る。
足を斬る。
馬頭が膝をつく。
そして止めを刺す。
馬頭が倒れる。
残り一体。
最後の牛頭獄卒。
だが——
「……限界、だ……」
リュウジの体が悲鳴を上げている。
身体強化:全の反動。
筋肉が痙攣し、骨が軋む。
もう動けない。
リュウジは膝をつく。
牛頭獄卒が近づいてくる。
棍棒を振り上げる。
「……ちっ……」
リュウジはインベントリから回復薬(中)を取り出し、一気に飲む。
温かい液体が体に染み渡る。
傷が癒える。
だが疲労は残る。
それでも——
「まだ、動ける!」
リュウジは立ち上がる。
牛頭の棍棒が振り下ろされる。
リュウジは横に跳ぶ。
そして最後の力を振り絞り、蒼刃を振るう。
牛頭の首を斬る。
深く。
一撃で。
牛頭が倒れる。
「……はあ、はあ……」
リュウジはその場に座り込んだ。
全身が痛い。
動けない。
だが——
勝った。
三体の獄卒を倒した。
「……やった、な……」
リュウジは笑った。
そして倒れた獄卒の場所に、アイテムが残っていた。
水筒×3。
回復薬(小)×6。
「……ありがたい……」
リュウジはアイテムを回収した。
そして再び祠の中に入る。
今度こそ休む。
目を閉じる。
疲労が襲ってくる。
意識が遠のく。
そして——
リュウジは眠りに落ちた。




