第1話:深淵への墜落
いつも通りの依頼だった。
古代遺跡の調査。報酬は銀貨五十枚。危険度は中程度。冒険者歴十八年のリュウジにとって、何の変哲もない日常業務だ。
「よし、これで最深部だな」
松明の明かりを頼りに石造りの回廊を進む。腰に下げた蒼刃が、歩くたびに鞘に当たって小さな音を立てる。冒険者になって以来の相棒。刃渡り九十センチ、青みがかった鋼の刀身。数え切れない戦いを共にしてきた。
依頼内容は簡単だ。遺跡最深部の魔法陣を確認し、碑文を写し取る。戦闘の予定はない。だからパーティも組んでいない。単独行動だ。
これが間違いだった。
最深部の扉を開けた瞬間、リュウジは違和感に気づいた。
部屋の中央に魔法陣がある。それは依頼主の情報通りだ。だが、その魔法陣が淡く発光している。碑文によれば、この魔法陣は数百年前に機能を停止したはずだった。
「おいおい、聞いてねえぞ」
後退しようとした。だが遅い。
魔法陣の光が急激に強まる。床から立ち上る光の柱。リュウジの全身を包み込む。
「ちっ」
身体強化を発動。速・力・跳・耐・全。冒険者の基本スキル。筋力、敏捷性、防御力を一時的に強化する。だが魔法陣の力はそれを上回った。
足元から床が消える感覚。
重力が反転する。
視界が回転し、天地が入れ替わる。
そして落下。
どれくらい落ち続けたのか分からない。
暗闇の中を墜落し続ける。風が顔を叩く。耳が痛い。だが地面に激突する気配がない。永遠に落ち続けるような錯覚。
やがて暗闇に光が差し込んだ。
眼下に川が見える。
いや、川ではない。水面が暗く濁っている。赤黒い色。まるで血のような——
次の瞬間、リュウジは水面に叩きつけられた。
冷たい。
全身を包む冷気。だが水ではない。粘度が高い。血に近い。いや、まさに血だ。
リュウジは必死で泳いだ。身体強化を維持したまま、岸を目指す。肺が痛い。息が続かない。
ようやく岸に辿り着き、這い上がる。
全身が血まみれだった。
「……何だこれ」
川を振り返る。
幅およそ五十メートル。対岸まで見渡せる。だが水面——いや、血面は流れが速い。渦を巻いている箇所もある。あの中に落ちていたら、間違いなく溺れていた。
空を見上げる。
赤い。
空全体が赤く染まっている。太陽はない。だが明るい。不気味な赤い光が全体を照らしている。
「……どこだここは」
とりあえず装備を確認する。蒼刃は無事。インベントリも機能している。十五スロット分のアイテムが格納されている。回復薬、解毒剤、食料、水、ロープ——冒険者の標準装備。
身体に異常はない。身体強化も問題なく発動する。
「よし、まずは状況把握だな」
川沿いに歩き始める。
どちらに進めばいいのか分からない。だが止まっていても仕方ない。とにかく人工物を探す。建物、道、何でもいい。人の痕跡があれば、脱出の手がかりが見つかるかもしれない。
十分ほど歩いたところで、それは見えた。
橋だ。
いや、橋らしきもの。木材と縄で作られた粗末な吊り橋。幅は二メートル程度。長さは川幅と同じく五十メートル。
そして橋のたもとに、何かがいる。
人影。
いや、人ではない。
身長は二メートルを超える。
痩せ細った身体。肋骨が浮き出ている。皮膚は灰色で、所々が剥がれている。長い白髪が腰まで垂れ下がっている。
顔——それを顔と呼んでいいのか分からないが——は皺だらけで、目は黄色く濁っている。口は耳まで裂けている。
そして両腕が異様に長い。膝を超えて地面まで届く。
その化物が、リュウジを見つめていた。
「……何者だ」
リュウジは蒼刃に手をかける。
化物が口を開いた。
「……生者、か」
声は掠れている。だが言葉は理解できる。
「生者がこの地に来るとは、珍しい。いや、あってはならぬこと」
化物——いや、老婆か?——がゆっくりと近づいてくる。
リュウジは後退する。
「待て。俺は敵じゃない」
「敵? ふふ、この地に来た者は皆、等しく罪人よ」
老婆の腕が伸びる。
文字通り、伸びる。
関節が増え、腕が蛇のようにしなり、リュウジに襲いかかる。
「ちっ——!」
リュウジは蒼刃を抜き放つ。
身体強化:速を最大まで引き上げ、横に跳ぶ。老婆の腕が空を切る。地面に激突し、土煙が上がる。
速い。
あの細い腕からは想像できない速度と威力。
「おいおい、マジかよ」
老婆が笑う。
「衣を脱げ。この三途の川を渡る者は、衣を脱がねばならぬ。それが掟」
「三途の川……?」
聞いたことのない言葉だ。
「そう。ここは冥途。生者の来る場所ではない」
冥途。
それも初耳だ。
「冥途って何だ」
「死者が辿り着く場所。お前のような生きた人間が来る世界ではない」
死者の世界。
つまり、俺は死んだのか?
いや違う。身体は動く。呼吸もしている。生きている。
「俺は生きてる。なら元の世界に戻る方法があるはずだ」
「ふふ、あるにはあるが」
老婆——脱衣婆——の両腕が再び伸びる。
今度は左右同時。挟み込むような軌道。
リュウジは前に跳ぶ。脱衣婆との距離を詰める。腕を避けるなら懐に飛び込むしかない。
蒼刃を振るう。
だが——
「硬ぇ!」
刃が脱衣婆の身体に当たるが、弾かれる。まるで岩を斬ったような感触。
「無駄よ。生者の武器では、冥途の者は斬れぬ」
脱衣婆の腕が戻ってくる。リュウジの背後から。
回避が間に合わない。
身体強化:耐を最大まで引き上げる。
腕がリュウジの背中を打つ。
吹き飛ぶ。
五メートル以上跳ね飛ばされ、地面に叩きつけられる。
「……っ、がっ……」
肋骨が折れたかもしれない。呼吸が苦しい。身体強化で防御力を上げていなければ、即死だった。
「ふふ、少しは鍛えておるようだな。だが無意味」
脱衣婆が近づいてくる。
リュウジは立ち上がる。インベントリから回復薬を取り出し、一気に飲む。傷が塞がり、痛みが引く。だが完全ではない。
「……斬れない、か」
武器が効かない敵。
冒険者歴十八年の中で、何度か遭遇したことがある。魔法耐性を持つ魔物、物理無効のゴースト——対処法は知っている。
だが、ここは冥途。
相手は死者の世界の存在。
常識が通用しない。
「ならどうする……」
脱衣婆の腕が再び伸びる。
リュウジは横に跳ぶ。だが腕が追従する。蛇のようにしなり、方向を変える。
避けきれない。
身体強化:速と跳を同時に最大まで引き上げ、真上に跳ぶ。
三メートル以上の跳躍。
だが——
「!」
脱衣婆のもう一方の腕が、上から降ってくる。
空中では回避できない。
リュウジは蒼刃を盾のように構える。
腕が刃に激突。
衝撃で地面に叩き落とされる。
「ぐっ……!」
背中から地面に落ち、息が詰まる。
脱衣婆が笑う。
「無駄な抵抗を。大人しく衣を脱げ」
「……断る」
リュウジは立ち上がる。
もう一度回復薬を飲む。残り十三本。
「ふふ、まだやるか」
「当たり前だ。ここで終わるわけにはいかねえ」
死んだら、本当に終わりだ。
この冥途とやらで死んだら、魂すら消滅するかもしれない。
ならば——
「逃げるしかねえな」
リュウジは身を翻し、全力で走り出す。
身体強化:速を維持したまま、川沿いを逆方向へ。
脱衣婆の笑い声が背後から聞こえる。
「逃げても無駄よ。この冥途から逃れることはできぬ」
だが追ってこない。
リュウジは振り返らずに走り続ける。
三百メートルほど離れたところで、ようやく立ち止まる。
「……はぁ、はぁ……」
息が上がる。
振り返る。
脱衣婆の姿は見えない。
「……追ってこないのか」
理由は分からない。だが助かった。
とりあえず状況を整理する。
ここは冥途——死者の世界。
脱衣婆という化物がいる。
武器が効かない。
逃げることはできるが、脱出方法は不明。
「……詰んでるな、これ」
笑うしかない。
冒険者歴十八年で最悪の事態。
だが、まだ諦めるわけにはいかない。
リュウジは再び歩き始める。
川沿いを進む。脱衣婆とは反対方向に。
十分ほど歩いたところで、異変に気づいた。
川の流れが変わっている。
さっきまでは右から左に流れていた。だが今は左から右に流れている。
「……どういうことだ?」
そして——
橋が見える。
さっきと同じ吊り橋。
そして橋のたもとに、脱衣婆が立っている。
「……嘘だろ」
脱衣婆が笑う。
「言ったであろう。逃げても無駄だと」
「……ループ、してんのか」
「この冥途は円環。どこまで行こうと、必ず此処に戻る」
リュウジは舌打ちする。
逃げ場がない。
ならば——
「……戦うしかねえってことか」
「ふふ、諦めたか」
「いや」
リュウジは蒼刃を構える。
「戦い方を変えるだけだ」
武器が効かないなら、武器以外で戦う。
冒険者の基本——環境の利用。
リュウジは脱衣婆との距離を詰める。
脱衣婆の腕が伸びる。
リュウジは横に跳び、腕を避ける。そして——
川に向かって走る。
「!」
脱衣婆が反応する。腕がリュウジを追う。
リュウジは川の縁で急停止。
脱衣婆の腕が空振りし、川に突っ込む。
「——!」
脱衣婆が苦悶の声を上げる。
腕が血の川に触れた瞬間、煙が上がる。焼かれているような音。
「……効くのか」
リュウジは即座に動く。
インベントリからロープを取り出す。長さ十メートル。冒険者の必需品。
ロープの片端を川に浸す。
血がロープに染み込む。
「よし——」
リュウジは血に濡れたロープを振り回し、脱衣婆に投げつける。
ロープが脱衣婆の身体に巻きつく。
「——ぎゃああああ!」
脱衣婆が悲鳴を上げる。
身体から煙が上がる。皮膚が溶ける。
だが——
「……ちっ、再生するのかよ」
脱衣婆の身体が再生していく。溶けた皮膚が元に戻る。
リュウジはロープを引き戻す。
もう一度血に浸し、投げつける。
だが脱衣婆は学習していた。
腕でロープを払い除ける。
「小賢しい……!」
脱衣婆の両腕が同時に伸びる。
リュウジは後退する。
だが腕の速度が上がっている。怒りで力が増しているのか。
避けきれない。
リュウジは地面に伏せる。
腕が頭上を通過する。
そして——
リュウジは身体強化:力を最大まで引き上げ、地面を蹴る。
脱衣婆の懐に飛び込む。
蒼刃を振るう。
だが刃は弾かれる。やはり効かない。
しかし——
リュウジの左手が、脱衣婆の顔を掴む。
血に濡れた左手。
「——!」
脱衣婆の顔が溶ける。
悲鳴。
リュウジは手を離し、後退する。
「……やっぱり効くんだな、この血」
脱衣婆は顔を押さえて悶える。
だが再生していく。
「……キリがねえな、これ」
リュウジは作戦を変える。
倒すことは無理だ。
ならば——
「橋を渡る」
脱衣婆が川を守っているなら、川を渡ることが目的のはず。
リュウジは吊り橋に向かって走る。
脱衣婆が反応する。
「待て——!」
腕が伸びる。
リュウジは橋に飛び乗る。
揺れる。
バランスを崩しそうになるが、身体強化:全で体幹を安定させる。
そして走る。
脱衣婆の腕が追ってくる。
だが——
腕が橋の手前で止まる。
「……越えられないのか」
リュウジは橋の中央まで来たところで立ち止まり、振り返る。
脱衣婆が橋のたもとで立ち尽くしている。
「……行くがよい」
脱衣婆の声が、先ほどとは違う。
怒りではなく、諦めのような響き。
「生者よ。お前は強い。ならば先に進むがよい」
「……先?」
「この先は八つの世界。お前のような生者が進める場所ではない。だが、行きたいというなら止めはせぬ」
「八つの世界……」
リュウジは眉をひそめる。
「つまり、ここから先はもっとヤバいってことか」
「然り。等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、無間——八つの世界が、お前を待っておる」
「……マジかよ」
「そして各世界には、十王が座しておられる」
「十王?」
「死者を裁く審判者。秦広王、初江王、宋帝王、五官王、変成王、泰山王、平等王、都市王、五道転輪王——そして最奥には閻魔王」
リュウジは頭を抱える。
「……ちょっと待て。つまり、俺はこの八つの世界を全部抜けないと帰れないってことか?」
「生者が此処から帰る方法は、ただ一つ」
脱衣婆が指を差す。
橋の向こう——対岸の先に、巨大な門が見える。
赤く染まった門。
その門の向こうに、赤い空が広がっている。
「八つの世界を踏破し、十王の試練を全て越え、閻魔王の審判を受ける。それのみが、生者の帰還を許す条件」
「試練……?」
「十王は、生者には試練を与える。お前の魂を測るための試練を。それを越えれば、力を授かるだろう。越えられなければ——死ぬ」
リュウジは深く息を吐く。
「……要するに、八つの世界をクリアしろってことか」
「然り」
「……冒険者の仕事みたいなもんだな」
リュウジは苦笑する。
状況は最悪だ。
だが、やることは単純。
ダンジョンを攻略する。それだけ。
「分かった。やるしかねえってことだな」
リュウジは橋を渡り切る。
対岸に降り立つ。
振り返ると、脱衣婆はもう見えない。
「……さてと」
リュウジは赤い門を見上げる。
門は高さ十メートル以上。黒い鉄で作られている。表面には無数の彫刻——苦悶する人々の顔。
門には文字が刻まれている。
「等活」
リュウジは深呼吸する。
「……行くか」
門に手をかける。
重い。
だが身体強化:力を使えば開く。
ゆっくりと門が開いていく。
その向こうに——
赤い空。
溶岩の川。
そして、無数の叫び声。
リュウジは一歩、踏み出した。
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