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公爵家の養女は静かに爪を研ぐ 〜元々私のものですので、全て返していただきます〜  作者: しましまにゃんこ


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第九話  もう、見逃さない

 ◇◇◇


 その異変に、最初に気づいたのはリュシアンだった。昼下がりの回廊。生徒たちの声が遠のく時間帯。アリサの姿を探していたリュシアンは、いつものように静かに、目立たぬように柱の影に身を寄せるように立つアリサを見付けた。

 ただ——

「……殿下?」

 彼女が顔を上げた瞬間、リュシアンの胸の奥が、ひやりと冷えた。

 首元。制服の襟に隠れるはずの場所に、赤く滲んだ痕。それは、偶然ではつかない位置だった。


「その傷はどうした」

 声が低くなるのを、自覚していた。問いというより、確認に近い。

 アリサは一瞬、迷うように視線を揺らし、それから、いつもの言葉を選んだ。

「……何でもございません。わたくしの不注意でついた傷です」

 不注意。その言葉が、ひどく不釣り合いだった。


「誰にやられた」

 ぴくり、と。ほんのわずかに、彼女の肩が揺れる。一瞬の沈黙。それだけで、十分だった。


「……あら、こんな所でお会いできるなんて、奇遇ですわね」

 甲高い声が、回廊に響いた。マリアは取り巻きを引き連れ、優雅に歩み寄ってくる。  


「マリア、これは君がやったのか?」

思わず声を荒げるリュシアン。マリアはチラリとアリサを見ると、軽く眉を上げた。


「殿下、誤解なさらないで。ただの“姉妹の躾”ですわ」

 唇に浮かぶのは、作り物の微笑み。だが、その目は、隠す気もなく冷えていた。

「この子、身分をわきまえないものですから」

 アリサに伸ばされた手。——その瞬間。

「黙れ」

 リュシアンの低く、鋭い声が響く。場の空気が、一気に凍りついた。

 リュシアンはアリサの前に立つと、マリアの腕を掴み睨みつける。


「それ以上、彼女に触れるな」

 マリアの目が驚きに見開かれる。

「……殿下?」

「何度も注意したはずだ。君の言動は、教育でも躾でもない。これはれっきとした暴力だ」

 取り巻きたちが、息を呑むのがわかった。

「王太子として、そして一人の人間として——俺は、これを見過ごさない」


 マリアの顔が、歪む。

「……そんな、孤児上がりの養女を……!」

 その言葉が、決定打だった。

「——失言だ、マリア。君は今、公の場で王家の保護下にある者を侮辱した」

 マリアの唇が、わなわなと震える。


「今日から、君の行動はすべて記録される。必要とあらば、婚約の見直しも——」

「なっ……!」

 最後まで言わせなかった。リュシアンは、振り返り、そっとアリサに声をかける。

「……大丈夫か」

 アリサは、少し驚いた顔で彼を見上げ、それから、小さく息を吐いた。

「……はい」

 ほんの一瞬。彼女は、助けを受け取った。それを見て、リュシアンは悟った。

 ——もう、遅いくらいだ。守ると決めた。最初から、そうすべきだった。


 回廊の端で、黒猫が、金色の目を細めていた。その隣で、白い猫が静かに尾を揺らす。

 ——ようやく、か。

 言葉なき視線が、そう告げていた。

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