第八話 気づかれぬ傷、消された痕跡
◇◇◇
王太子の命を受け、密かに動き始めた調査は、思いのほか早く壁にぶつかった。
「……殿下。リヴィエール家の養女、アリサ様についてですが」
近侍は報告書を手に、わずかに言い淀んだ。
「学園での成績、人間関係、使用人からの評判……どれも“問題なし”です。ただ――」
「ただ?」
「記録が、少なすぎます」
リュシアンは眉を寄せた。孤児院から引き取られた経緯。幼少期の健康記録。魔力測定の結果。
本来、貴族として学園に通うなら、必ず残っているはずのものが――不自然なほど抜け落ちている。
「まるで……最初から“存在しなかった”かのようだな」
「はい。意図的に整理された可能性があります」
誰が。何のために。リュシアンの脳裏に、深い青を宿す髪と瞳が浮かぶ。
(水の精霊に愛されし者……)
偶然にしては、できすぎている。
「引き続き調べろ。過去の女公爵、その血筋も含めてだ」
「御意」
近侍が下がったあと、リュシアンはひとり息を吐いた。――彼女はいったい、何を背負わされている。
◇◇◇
同じ頃。アリサは寮の自室で、静かに濡れた髪を拭いていた。鏡に映る自分の姿は、いつもと変わらない。ただ――。
胸元に、淡く残る赤い痕。
(……また、消えてない)
制服の下に隠れる、誰にも見えない場所。それは幼い頃から、何度も現れては薄れていく痕だった。
痛みはない。不思議と、違和感もない。
(……気にするほどのことじゃないわ)
昔から、そうだった。叱責されるのも。突き飛ばされるのも。水を浴びせられるのも。
「わたくしが至らないから」
そう思えば、すべて納得できた。誰かに庇われる必要もない。助けを求める理由もない。
(……だって、これくらい普通でしょう?)
ふと、噴水の前での出来事が脳裏をよぎる。肩を掴まれた感触。真剣な声。
『大丈夫かっ!?』
胸の奥が、わずかにざわついた。
(……どうして、あんなに驚いたのかしら)
アリサは小さく首を振り、いつものように微笑みを作る。
「わたくしは、大丈夫」
それが――自分を守る唯一の方法だと、信じて疑わずに。
◇◇◇
その夜。王太子は再び窓辺に立ち、闇に沈む学園を見下ろしていた。
「……君は、本当に“何も感じていない”のか」
問いは、届かない。だが、ひとつだけ確かなことがあった。
――彼女の周囲には、触れてはいけない何かが隠されている。そしてそれは、放っておけば、必ず彼女を傷つける。
リュシアンの瞳に、静かな怒りが灯る。




