第五十六話 闇の勝利
◇◇◇
――神殿が、息を吸い込んだ。
次の瞬間、闇が一気に満ちる。
空気が、重く、冷たく、粘ついたものへと変わった。目に見えぬはずの闇が、確かな質量を持って迫ってくる。
「……っ……」
アリサの喉から、掠れた息が漏れた。
ぞわぞわと、闇が身体を侵食してくる。皮膚の表面だけではない。胸の奥、心の隙間へと、するりと入り込んでくる。
不安。絶望。悲しみ。
理由の分からない感情が、次々と浮かんでは消えていく。(怖い……)(守れなかったら……?) (また、失う……?)
思考が、崩されていく。 精神に、直接触れられているのが分かった。
「アリサ!」
リュシアンの声が遠くなる。視界が歪み、膝が崩れ落ちそうになった――そのとき。
すりっ。
足元に、柔らかな感触。次の瞬間、漆黒の闇を切り裂くように、甲高い鳴き声が響いた。
「――ニャァァッ!」
闇が、揺れた。
ほんの一瞬。だが確かに、闇の流れが乱れる。 「今だっ!」
リュシアンが剣を振るう。
光の一閃。 剣が、闇を切り裂いた。
だが――
「……っ」
力が抜け、アリサの身体が前に倒れる。
「アリサ!」
駆け寄るリュシアン。彼女の身体を抱き留める。 閉じていた瞼が、ゆっくりと開いた。
「……大丈夫……」
アリサは弱々しく微笑む。
「この子が……助けてくれたから……」
胸元で、小さな温もりが動く。ほっと息をついた、その瞬間だった。
ごう、と低い音が響く。
振り返った先で、信徒たちが―― 闇に、飲み込まれていた。
「なっ……」
黒い渦が、まるで巨大な穴のように広がっている。逃げ惑う信徒たちを、容赦なく引きずり込み、呑み込んでいく。叫び声は、すぐに闇に掻き消えた。
闇は、喰らい、蠢き、肥大していく。 まるで、空腹を満たす獣のように。
「あいつは……」
リュシアンが、呆然と呟く。
「――素晴らしい」
背後から、陶然とした声が響いた。
「ここまで育つとは……実に、素晴らしい」
振り返ると、そこには恍惚とした表情を浮かべるルシオが立っていた。信徒たちが消えた場所を、愛おしそうに見つめている。
「ルシオ様、な、何を言って……」
「分からないのですか?」
ルシオは、穏やかに微笑む。
「彼らは、役目を果たしたのです。神の糧として、神の一部になった……」
胸元で、鈍く光るペンダント。闇の呪具。
「感じる……」
ルシオが、深く息を吸う。
「力が……満ちる……」
闇が、ペンダントへと流れ込んでいく。
「私は、闇の精霊の声を聞けるのです。神は私を選ばれた。精神を侵し、生命を奪い、与える、残酷で美しい神です……」 その瞳には、もはや人の理は宿っていなかった。
「そのために、良質な餌が必要だった。それだけのことですよ」
くすり、と笑う。
「あなた方も、糧となるがいい……」
闇が、再び襲い来る。
「撤退だ!」
リュシアンは即座に判断した。これ以上、ここに留まることはできない。アリサを抱き寄せ、闇を切り払いながら後退する。
背後で、ルシオの笑い声が響いた。
「逃げなさい。逃げ切れるのなら、ね。闇はどこまでもあなた達を追うでしょう……最高の贄をね」
闇の胎動が、神殿全体を包み込む。
この日―― 全てが闇に飲み込まれた。




