第五話 奪われる気がした
◇◇◇
――ありえない。
噴水の水音が、やけに耳障りだった。
マリア・リヴィエールは、木陰からその光景を睨みつけていた。
王太子リュシアンが、あの女に駆け寄る姿。
迷いも、躊躇もなく。
(……どうして)
どうして、よりにもよって。ずぶ濡れで、みすぼらしい格好をした養女に。あんな女に、殿下が。
胸の奥で、何かがぎり、と音を立てて歪む。
――私の、婚約者なのに。
王太子妃になるのは自分だ。そう決まっている。そう教えられてきた。
自分は公爵家の嫡女で、選ばれる存在で、誰よりも上に立つべき人間だと。
なのに。
殿下の視線は、マリアを一度も見なかった。
代わりに向けられていたのは、あの女――
アリサ・リヴィエール。
(あんな、何も持っていない女が……)
気に食わない。最初から、ずっと。
学園に通い始めた頃から、マリアはあの養女が嫌いだった。理由など、考えるまでもない。自分より下にいるはずの存在が、自分と同じ「リヴィエール」の名を名乗っていること。
自分の背後に控え、黙って従うくせに、どこかで一線を引いているような、その態度。何より――
殿下が、あの女を「見てしまった」こと。
「……生意気なのよ」
唇から、低く呟きが零れる。養女のくせに。孤児院上がりのくせに。施されて生きているだけの存在のくせに。
それなのに、どうして。どうしてあんなふうに、殿下に笑いかけるの。
(奪うつもり?)
思考が、急速に尖っていく。もしかして、最初から狙っていたのではないか。王太子の同情を引くために、わざと可哀想なふりをして。
「……汚い」
マリアは、自分の胸に渦巻く感情に気づかないふりをした。怒りも、不安も、恐怖も。それらを認めてしまえば、自分が揺らいでしまう。
だから、結論は一つだけでいい。
――あの女が、悪い。
そうだ。すべて、アリサが悪い。
あの女がいるから、殿下の態度がおかしい。
あの女がいるから、周囲がざわつく。
あの女がいるから、自分の立場が揺らぐ気がする。
(……排除しなきゃ)
その考えは、驚くほど自然に浮かんだ。これまでだって、そうしてきた。
少し強く叱れば、黙る。恥をかかせれば、引き下がる。父も、母も、何も言わない。むしろ「放っておけ」と言うだけだ。
ならば、もっと。もっと、はっきり分からせてあげればいい。
「身の程を」
マリアは、爪を強く握りしめた。成人すれば、すべては自分のものになる。公爵家も、地位も、名誉も。――そして、邪魔な存在は。
視線の先で、アリサが立ち上がる。王太子と何か話しているその姿が、ひどく遠く感じられた。
胸の奥で、黒いものが膨らんでいく。まだ、間に合う。今のうちに、完全に折ってしまえばいい。
マリア・リヴィエールは、ゆっくりと笑った。それは、これまで誰にも見せたことのない、ひどく冷たい笑みだった。




