第四十一話 静かな水面に走る波紋
◇◇◇
王都の朝は、いつもより騒がしかった。
文官たちが慌ただしく行き交い、報告書が次々と王宮上階へと運ばれていく。その中の一つが、王太子リュシアンの執務机の上にも置かれた。
リュシアンは、執務机の前で報告書を閉じた。
「枯れかけた井戸に水が、湧いた?」
低く呟く声に、側近の文官が頷く。
「はい。場所は、南西の沿岸、水辺の小さな漁村です。以前から水不足が深刻化していた地域ですが、とある村で、数日前から井戸の水量が安定し、水質の良い水が湧き出ていると報告が上がっています。原因は今のところ不明。しかし、水の加護が戻ったのでは、と、すでに周辺の村々で噂になりつつあります」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がわずかにざわめいた。
――水の加護
リュシアンはゆっくりと息を吐く。
(……早計だ)
自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。
彼女が生きている可能性を、希望を、何度も胸に抱いては、理性で押し殺してきた。
だが。
海沿いの村に突然もたらされた水の精霊の加護。
偶然と呼ぶには、あまりにも符号が揃いすぎていた。
「王太子殿下、いかがなさいますか?」
文官の問いに、リュシアンは一拍だけ間を置いた。
「この現象が水の加護によるものなら、放置するわけには行くまい。視察に行く。護衛は最小限でいい」
逸る心を悟られぬよう、声はあくまで淡々と。
(もし、もしも――)
その続きを考えるのは、まだ早い。
だが、一刻も早く、確かめずにはいられなかった。
◇◇◇
一方その頃――。
王都大聖堂の奥深く、香の煙が揺れる神殿では、重苦しい沈黙が満ちていた。
「……水が、戻った、とな」
白い法衣に身を包んだ大神官が、低く呟く。
長年、教会は感じていた。
水の精霊の気配が、年々薄れていることを。
祈りに対する応えが、弱まっていることを。
「やはり……リヴィエール家の加護は、すでに尽きているのでは?」
側近の神官が、慎重に言葉を継ぐ。
「現当主、そしてその後継と紹介された少女からも、我らは水の加護を感じ取れませんでした」
かつて、大神官はその少女――マリアと対面した。高貴な公爵家に生まれた、華やかで美しい少女。だが、それだけだ。
少女から水の祝福は一切感じられなかった。
後継者を選ぶはずの聖獣も、側になく。
(精霊に見放されたのだ。あの家は……)
権力に溺れ、血統だけを誇る存在へと堕した結果。水の精霊は、彼らから離れたに違いない。
だとすれば――。
「初代と同じだ」
大神官の目が、静かに光る。
「新たに、水の精霊に選ばれし者が現れたのだ」
困窮する人々の傍らで育ち、切実な願いをもって水を求めた少女。
かつて国中を水の加護で潤した、あの女神の娘のように。
「しかし、もし新たに水の加護を得た者が現れたなら……リヴィエール家は、必ずその少女を排除しようとするでしょう」
大神官は、確信をもって頷いた。
「水の加護を失った事実が、公になれば、あの家は終わる」
脳裏をよぎるのは、権力にまみれた公爵家の姿。
特に公爵夫人から感じた、不快な気配。
(薄汚れた器に、加護が宿るはずがない)
「新たに誕生した女神の娘を、教会が守らねばなりません」
大神官は、静かに立ち上がる。
「水の精霊に愛されし者を。その力が、正しく使われるように導くのが我らの役目。今度こそ、正しい姿に戻すのだ。すぐに調査団を派遣せよ。いや、私が直接向かう!」
こうして――。
王太子と教会。二つの守護者が、同じ少女を目指して動き出した。
「あれ、どこに行ってたの?」
黒猫がすりっと体を擦り付ける。
「心配してくれてたの?大丈夫。もう体も大分回復してきたから。でも、王都にどうやって戻ろうか?歩いては……無理よね」
漁村で過ごす平和な日常の中、呑気に溜息をつくアリサ。
静かな水面に走った波紋は、やがて、大きなうねりとなって彼女の元へ届く。




