第四十話 王宮に届いた噂
◇◇◇
王宮文書室は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
分厚い石壁に囲まれた部屋。高い天井。長机の上には、各地から届けられた報告書が山のように積まれている。
それらを一枚ずつ確認していた男――文官マルセル・ド・ヴィエールは、ふと手を止めた。
「……海沿いの漁村、井戸の水量回復……?」
内容自体は珍しくない。雨、地層の変化、地下水脈の移動。そうした理由で、枯れかけた井戸が回復する例は過去にもあった。
だが。
マルセルは眉をひそめ、続きを読み進める。
「水質、極めて良好。魔力反応、微弱ながら確認……住民の証言によれば、発生は突発的」
報告書の末尾には、補足の紙が綴じられていた。別の文官による追記だ。
「近隣の複数の村でも、同様の水量回復が確認されている。共通点は、同一地域内での発生」
彼は、ゆっくりと椅子にもたれかかった。
――妙だ。
単発ではない。しかも、魔力反応。
自然現象と片付けるには、条件が揃いすぎている。
「……噂、か」
小さく呟き、机の端に置かれた別の書類に手を伸ばす。
それは、民間伝承・宗教的動向をまとめた報告だった。
「“水の加護を与える少女を見た”……“井戸のそばで淡い光が残っていた”……」
そこまで読んで、マルセルは静かに息を吸った。
最後の一文。
「一部住民の間で、“リヴィエールの女神の再来”との呼称が使われ始めている」
その名は、この国において特別な意味を持つ。
リヴィエール家。水の精霊に愛されし血統。
国中に水の恵みをもたらしたとされる、始まりの少女の末裔。
かつて――
水に乏しい土地だったこの国が、今の豊かさを得たのは、その存在あってこそだと語られてきた。
マルセルは立ち上がり、文書室の奥へ向かう。
そこには、王宮が保管する古い記録が眠っている。
「……あった」
埃を払って取り出したのは、数百年前の記録書。
――水の精霊に愛されし少女、生誕。
――その願いにより、国中に水の加護が行き渡る。
――以降、その血統を保護し、国の礎とする。
ページを捲るごとに、記述は変化していく。
加護の安定化。
儀式化。
当主による継承。
そして――。
「……“初代ほどの力は、以降確認されず”」
静かな一文。
マルセルは本を閉じた。
長い年月。
人々の願いが薄れ、恐れが混じり、敬意が形骸化していく中で、加護は少しずつ弱まっていった。
それでも、人々は信じてきた。
リヴィエール家がある限り、水は失われないと。
「……もし、だが」
もし今、この国のどこかで。
かつての初代と同じように、
“困っている人々を目の前にして、ただ水を願った者”が現れたとしたら。
その加護は――。
マルセルは報告書をまとめ、封蝋を施した。
宛先は、王宮上層部。
そして、その先にいる人物の名が、自然と脳裏に浮かぶ。
「……王太子殿下に、上げるべき案件だな」
これは、奇跡の噂ではない。
宗教の話でも、民間信仰でもない。
国の根幹に関わる事象だ。
机の上に置かれた書類の束。その一番上には、こう記されていた。
――水の加護、再活性の可能性について
王宮は、まだ知らない。
その噂の中心にいる少女が、
今この瞬間も、潮風の中で洗濯物を干していることを。
だが。
噂は、すでに机に乗った。
そして一度、王宮の机に乗ったものは――
決して、静かには終わらない。




