第四話 王太子は疑念を抱く
◇◇◇
貴族学園で初めて婚約者と顔を合わせた日のことを、リュシアンはよく覚えている。
マリア・リヴィエール。
公爵家の嫡女に相応しい、華やかな容姿を持つ少女だった。整えられた金髪、よく笑う唇。社交界で称賛される理由も、理解はできた。
――だが、それだけだ。
彼女の言葉の端々には、常に棘があった。身分の低い者に向けられる、露骨な嘲り。自分の血筋や美貌を、無意識のうちに誇示する癖。
「あなたには分からないでしょう?」 「平民には身の程というものがありますのよ」
そんな言葉を、悪びれもせず口にするのを目の当たりにするたび、胸の奥に冷たいものが積もっていった。
王太子として、感情で人を判断してはならない。そう自分に言い聞かせても、辟易とする気持ちは抑えきれなかった。
そして――いつも彼女の背後には、影のように寄り添う存在があった。
養子の妹。アリサ・リヴィエール。
マリアが声を荒らげるたび、彼女は一歩下がり、視線を伏せ、何も言わずに従っていた。まるで、そこに「いないもの」であるかのように。
そのため、リュシアンは長い間、彼女の顔をはっきりと見たことがなかった。
ただ一つ、確かなのは――
マリアが、その養女を酷く憎んでいるという事実だけだ。人前での叱責。必要以上に厳しい言葉。ときには、王太子であるリュシアンの目の前でさえ、露骨な敵意を隠そうとしない。
(なぜ、そこまで)
疑問は、自然と湧いた。公爵家には嫡出の娘がいる。それにも関わらず、わざわざ孤児院から子どもを引き取り、養女として育てる理由があるのか。慈善にしては、扱いがあまりにも歪だ。
そして――その答えの一端に触れたのが、あの日だった。噴水の前で、ずぶ濡れになっていた少女。初めて、はっきりと見たアリサの顔。伏せられていた髪が光を受け、微妙に色を変えた瞬間、リュシアンは息を呑んだ。
黒に見えて、黒ではない。深い、深い青。
水面の底を覗き込んだときのような色。
瞳も同じだった。光の角度によって、わずかに青を帯びるその色は――
(……水の精霊に愛されし者)
胸の奥で、記憶が静かに繋がる。かつての女公爵。この国に名を残した、誇り高き女性。彼女が持っていたのも、同じ色だった。偶然だと、片付けるには無理がある。
「……なるほどな」
リュシアンは、誰もいない執務室で小さく呟いた。これまで感じていた違和感が、一本の線として繋がり始めている。
マリアの傲慢さ。養女への異常な執着。そして、隠すように扱われる少女の存在。
(調べる必要がある)
それは王太子としての義務でもあり、そして――個人的な感情を抜きにしても、見過ごせない問題だった。
机の上に置かれた書類の隅で、白い猫が静かに尻尾を揺らす。金色の瞳が、リュシアンを見上げていた。
「……分かっている」
猫に言うともなく、呟く。
「これは、ただの家の内情じゃない」
王家を欺く行為である可能性すらある。そして何より――あの少女が、これ以上理不尽に押し潰される理由はない。
リュシアンは立ち上がった。静かに、しかし確実に。王太子は、動き始めていた。




