第三十八話 水を分け与える手
◇◇◇
次に目覚めたとき、アリサは粗末だが清潔なベッドに寝かされていた。狭い部屋に低い天井。潮の匂いが、かすかに鼻をくすぐる。
「……ああ、起きたかい?」
そう声をかけてきたのは、ガッシリとした身体つきの年配の女性だった。
日に焼けた肌に、働き者の手。漁師の妻だと、すぐに分かる。
「無理しちゃだめだよ。あんた、ずいぶん長いこと眠ってたんだから」
アリサは喉を鳴らし、ゆっくりと身を起こした。
体はまだ重く、上手く力が入らない。
「……ここは……?」
「海沿いの村さ。あんた、浜に流れ着いてたんだよ。ひどい有様だった」
そう言って、おかみさんはグラスに入れた水をそっと差し出す。
アリサは一瞬ためらい、それから両手で受け取った。冷たい水が、痛んだ喉に染み渡る。
「理由は聞かないよ。身体が治るまで、ここにいたらいい。安心しな。亭主を早くに亡くして、この家には私しかいないから。こんな綺麗なお嬢さんを、野郎どもに預けるわけにいかないからね」
カラカラと快活に笑うおかみさんを見て、アリサの身体から緊張が抜けた。
「さぁ、もう少し寝てな。スープができたら持ってくるよ」
「ありがとう、ございます」
それから数日間、アリサはおかみさんの家のベッドで静かに過ごすことができた。
体へのダメージは思った以上に深刻で、歩くことはもちろん、声を出すことすら、ままならない日々。
その間、おかみさんは本当の娘のように甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
ようやく外に出られるまで回復したある日、アリサはぽつりと聞いた。
「……村の水は、足りているんですか?」
村から感じる水の気配が薄いことに気が付いたのだ。
おかみさんは、一瞬だけ目を逸らした。
「……この村には古い井戸がひとつしかなくてね。年々水の量が減ってるんだ。海に囲まれてたって、真水がなくっちゃ生きられない。この村も、ぼちぼち消える運命なのかもしれないね」
井戸は枯れがちで、飲める水は限られている。
海水を煮沸しても、完全な飲み水にはならなかった。
「まぁ、なるようにしかならないさ。大丈夫。あんた1人ぐらい増えたって、どうってことないさ」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締まった。
――この人は、この村の人達は、自分たちの飲み水を削ってまで、私を助けてくれていたんだ。
数日後。ようやく外を歩けるようになったアリサは、井戸の前に立っていた。
確かに水面は低く、水の気配が遠い。
井戸に水を汲みに来る村人たちの顔には、諦めに似た慣れがあった。
アリサは、そっと胸に手を当てる。ペンダントは、もうない。
けれど――。
(……残ってる)
自分の中に、確かにあるもの。それはきっと、守るための力。分け与えるための力だ。
アリサは強く、願った。
――この村に、水を。この優しい人たちに、途切れることのない水の加護を!
その瞬間、空気が変わった。淡い光が、アリサの足元から立ち上る。
水の粒子が舞い、風に乗り、ゆっくりと井戸へと集まっていく。水面が、ゆっくりと、確かに上昇するのが分かった。
「……な……」
「水が……!」
村人たちが、息を呑む。井戸から溢れ出した水は、まるで鏡のように澄み切っていた。
冷たく、清らかで、生きている水。
誰かが、震える声で呟いた。
「……女神、さま……?」
次の瞬間、村人たちは膝をついた。祈るように、頭を垂れる。
「ち、違います……!」
アリサは慌てて手を振った。
「やめてください、そんな……!」
そのとき、アリサの様子を見に来たおかみさんが前に出た。
「あんたたち! 何してんだい!いきなりそんなことされちゃあ、この優しい娘さんが困っちまうよっ!」
「おい!見てくれ!水だ!綺麗な水が湧き出てきたんだ!」
「何を馬鹿なことを……」
言いかけたおかみさんは、井戸を覗き込み目を見張る。
「本当だ。こんなことってあるのかい……」
「奇跡だ!」「奇跡が起こったんだよ!」「俺たちはこの目で見たんだ!」
再び騒ぎ始めた村人たち。おかみさんは手をたたく。
「はいはい!分かったよ!でもこれ以上うるさくするのはやめとくれ!ほら!お嬢さんが怯えてるだろ!?」
おかみさんの言葉に渋々引き下がる村人たち。
「悪いね。全く、こいつらときたら……」
そして、アリサの肩に、そっと手を置く。
「……でもね。ありがとう。本当に、なんて言えばいいか分からないけど」
目に、涙を浮かべて。
「あんた、ほんと……大したもんだよ」
その言葉に、胸の奥が、じんわりと温かくなった。
――ああ。これでいいんだ。
私の持つ水の力は、誰かを踏みつけるための力じゃない。恐れさせるための力でもない。
きっと、生きるために、分け合う力だ。
アリサは、静かに空を見上げた。




