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公爵家の養女は静かに爪を研ぐ 〜元々私のものですので、全て返していただきます〜  作者: しましまにゃんこ


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第三十七話 水辺に流れ着くもの

 

 ◇◇◇


 ――ごぼり。

 喉に、冷たい水が流れ込んだ。

「っ……!」

 咳き込み、肺が焼けるように痛む。

 さっきまで包み込んでいたはずの水は、もうどこにもない。

 柔らかな揺り籠は消え、代わりに硬い地面の感触が背中に伝わってくる。


 ――ここ、は……?

 視界がぐらつく。

 空は低く、灰色の雲が流れていた。

 耳に届くのは、波が岸に打ち寄せる音と、湿った風の音。

 水辺だ。

 アリサは反射的に身を起こそうとして、失敗した。全身が鉛のように重い。指先が、震える。

「……っ、は……」

 息を吸うだけで、胸が軋む。

 身体のどこかが折れているわけではない。

 だが、魔力を使い切った後の、あの感覚。

 力が、空っぽになったときの虚脱。

 ――生きてる。

 その事実が、遅れて胸に落ちてくる。

 視線を下げる。胸元に、ペンダントはない。

 それを確認した瞬間、ほんの一瞬だけ、心が揺れた。

 でも、不思議と絶望はなかった。代わりに、確かな感触がある。

 冷たい砂。

 濡れた衣服。

 重く、痛く、間違いなく――現実。

 遠くで、声がした。


「……おい、何かいるぞ!」

 男の声。

 複数人の足音が、砂を踏みしめて近づいてくる。

 アリサは慌てて身を起こそうとし、また力が抜けた。

 逃げなければ。

 そう思うのに、身体が言うことをきかない。

 影が、視界に落ちる。

「子ども……?いや、娘だ」

「生きてるのか?」

 逆光の中、覗き込む顔はよく見えない。

 だが、その声には、敵意よりも困惑が混じっていた。


 アリサは、必死に唇を動かす。

 名前を言うべきか。助けを求めるべきか。

 けれど、喉から出たのは、掠れた音だけだった。

「……みず……」

 自分でも、何を言ったのか分からない。

 ただ、そう言葉がこぼれた。

 男は一瞬、目を見開き、それから仲間に向かって叫んだ。

「水を! 毛布も持ってこい!」

 誰かの手が、そっと肩に触れる。

 無骨だが優しい手。

 その瞬間、張り詰めていた意識が、ぷつりと切れた。


 倒れ込む寸前、アリサの脳裏に、ただ一つの思いが浮かぶ。

 ――まだ、終わっていない。

 水は、彼女をここまで運んだ。守るためではない。生かすために。

 そして今度は、人の手が――

 彼女を、次の場所へ運ぼうとしていた。


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