第三十六話 水底の揺り籠
◇◇◇
音は、すべて水に溶けていた。
落下の衝撃も、砕ける岩の感触も、遠い記憶の底に沈んでいる。
アリサは、深い水の中で眠っていた。
冷たさはない。
息苦しさもない。
彼女の身体は、球状の水に包まれている。
柔らかな、揺り籠のように。
膝を抱え、背を丸めた姿は、まるで生まれる前の胎児のようだった。
長い髪が水にほどけ、静かに漂う。
胸元には――もう、何もない。
あの雫型のペンダントは、ここにはなかった。
守護の証は、役目を終え、
彼女の身代わりとして、世界に残された。
――それでも。
アリサは、生きている。
水が、彼女を拒まなかったからだ。
球状の水は、脈打つようにわずかに揺れる。
それは魔法ではない。加護でもない。
応えたのだ。彼女自身に。
微かな鼓動。
ひとつ、またひとつ。
意識はまだ深い場所に沈んでいるが、心だけが、ゆっくりと浮かび上がっていく。
遠い記憶が、泡のように立ち上った。
白い指。柔らかな温もり。そして、優しい声。
『よく似合ってるわ。絶対に、無くしちゃだめよ?』
姿は思い出せない。顔も、輪郭すら曖昧だ。
けれど、その声だけは、確かに覚えている。
――お母様。
あなたが託したものは、もう私の手元にはない。
けれど、あなたが守ろうとした“私”は、ここにいる。
水が、ゆっくりと渦を巻く。
まるで、答えるように。
アリサの指先が、わずかに動いた。
無意識のその動きに、水が応じる。
球状の水が形を変え、彼女の呼吸を助ける。
――眠っているだけでは、終われない。
奪われた名前。奪われた居場所。奪われた時間。
それらを抱えたまま、沈み続けることはできない。
水が、ゆっくりと上昇を始める。
暗い水底から、かすかな光の方へ。
まだ、誰も知らない。
崖下で見つかったのが、壊れたペンダントだけだったことも。
それが「終わり」だと、信じられていることも。
だが、水の中で――
リヴィエール家の正統な後継者は、
確かに、生きている。
守られる存在としてではなく、これから、選ぶ者として。




