第三十五話 崖下に残されたもの
◇◇◇
崖下に吹き荒れる風は、冷たく湿っていた。岩肌に打ち付ける波の音が、絶え間なく響いている。
「……馬車の残骸を確認!」
王家の護衛騎士の声が、切り立った岩壁に反響する。
数刻前、彼らの目の前で、公爵家の紋章を掲げた馬車は音を立てて転落した。追いつくことも、止めることも叶わなかった。
砕け散った車輪。引き裂かれた幌。岩に打ち付けられ、無惨に折れた木枠。誰の目にも、状況は明らかだった。
「……生存は、難しいか」
呟いた騎士の声は、風にかき消される。
捜索は慎重に進められた。万が一を信じ、岩陰を、浅瀬を、血痕の残る場所を一つ一つ確かめていく。だが――
遺体は、見つからない。
「こちらも異常なし」 「下流も確認したが、痕跡は……」
希望と焦燥が入り混じる中、若い騎士がふと声を上げた。
「……何か、あります」
岩場の隙間。海水に洗われ、かろうじて引っかかっていたそれは、鎖の切れた小さなペンダントだった。
「それは……」
拾い上げた瞬間、周囲の空気が変わる。年嵩の護衛が、息を呑んだ。
「リヴィエール家の……」
銀の縁取り。中央には、かつて澄んだ光を宿していたはずの宝石。――だが今は。細かなひびが入り、魔力の気配はほとんど感じられなかった。役割を終えた器。空になった証。
「……加護が、発動した痕跡だ」
その言葉に、誰もが黙り込む。
歴代の公爵が、自らの魔力を込め、次代を守るために託す守護のペンダント。守るべき者を救ったとき、それは力を失うとされている。
つまり――。
「……アリサ嬢は、加護の力によって守られた。だが」
言葉の先を、誰も続けなかった。
加護は一度きり。役割を終えた今、守るべき者は――。波音だけが、答えの代わりに響く。
「遺体が見つからないのは……」
「……海に、流された可能性が高いな」
冷静な判断だった。あまりにも、現実的な結論。ペンダントは布に包まれ、丁重に保管された。それが、唯一残された“証拠”だった。
◇◇◇
同じ頃、公爵邸は異様な静けさに包まれていた。
主の不在。使用人の数も減り、広い屋敷は空洞のようだ。セシリアは客間で紅茶を口にしていたが、その表情からは何も読み取れない。
一方、マリアは落ち着かない様子で、何度も窓の外を眺めていた。
「……遅いわね」
「捜索には時間がかかるものよ」
淡々とした声。そこに、悲嘆の色はない。
「どうせ……」
マリアは言いかけて、口を噤んだ。言葉にしなくても、分かっている。
“あの子”は、きっと戻らない。
扉の外では、老執事エドガー・グランウェルが一人、静かに立っていた。報告は、すでに受けている。
――ペンダントが見つかった。
その意味を、彼ほど理解している者はいない。
だが……。エドガーは、拳の中で、古い懐中時計を握りしめた。秒針の音が、やけに大きく響く。
(……遺体が、ない)
それだけが、彼を立たせていた。
当主エリシアが亡くなった日から、彼は待ち続けてきた。正統なる後継者が戻る、その瞬間を。
「……まだ、終わってはおりません」
誰にともなく、そう呟く。
壊れたペンダントが示すのは、終わりではない。
それはただ――
守りが役目を終えたというだけだ。
ならば次は、奪われた者自身が、歩き出す番。
崖下に残されたのは、絶望の証。だが同時に、それは――嵐の前の、静かな兆しでもあった。
時は、確かに動いている。




