第三十三話 破られた沈黙
◇◇◇
その日は、あまりにも静かだった。
公爵と継母が揃って王宮へ向かったあと、公爵邸は不自然なほど落ち着いていた。使用人の数も少なく、笑い声も、足音も、どこか遠い。
マリアは珍しく朝から機嫌が良かった。色鮮やかなドレスに身を包み、侍女たちを引き連れて街へ出ていく姿を、アリサは廊下の端から静かに見送った。
――今日は、誰もいないのね。
その事実に、理由の分からない胸騒ぎを覚えながら、アリサは自室に戻った。
ほどなくして、控えめなノックが響く。入ってきたのは、見慣れないメイドだった。
「お茶をお持ちしました」
丁寧な所作。伏せられた目。声に抑揚はない。 違和感は、ほんの一瞬だった。
「……ありがとう」
差し出されたカップに、何気なく口をつけた、次の瞬間だった。
――ぐらり。
視界が歪み、床が傾く。喉の奥がひくりと痙攣し、カップが指先から滑り落ちた。
「……な、に……?」
身体に力が入らない。椅子から崩れ落ちそうになるアリサを、メイドは無言で見下ろしていた。
その目に、感情はなかった。
「……手はず通りです」
低く呟くと、彼女は扉の外へ合図を送った。 ほどなく、複数の足音が響くと男たちが現れ、動けないアリサにすっぽりと布を被せ、まるで荷物のように運んでいく。
「……っ」
声を出そうとしても、舌が動かない。意識だけが、必死に浮かび上がろうとする。
裏口から出され、長く放置されていた古い馬車に放り込まれる。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
馬車は、すぐに走り出した。揺れ。車輪の軋む音。土埃の匂い。
どこへ行くのか。何が起きているのか。
思考は霧に包まれ、意識が遠のいていく。
――エドガー。
名前を呼ぼうとして、闇に沈んだ。
◇◇◇
最初に違和感に気づいたのは、王家の護衛達だった。公爵邸から出ていく一台の古い馬車。馬に乗った見慣れない男達。
「おい、そこの馬車……待てっ!」
静止を振り切りスピードを上げる馬車。
嫌な予感が、背筋を走る。
護衛はすぐに馬に飛び乗った。馬車との距離はまだあるが、追い付けるはず。
だが、前方の馬車が急に進路を変えた。
「くそっ!止まれ!」
必死で叫ぶが、馬車はどんどん速度を上げ、荒れた道へ向かっていく。
その先は――
「クソっ!この先は崖だ!」
崖に差し掛かった次の瞬間。男たちは素早く馬から車体を切り離した。そのまま馬に乗って走り去る男たち。
制御を失った車体は、崖の縁を越え、空中に放り出された。──響く轟音。
木々をなぎ倒し、地面に叩きつけられ、さらに下へ。 車体は、闇の中へと転落していった。
護衛は、崖の縁で馬を止め、下を覗き込む。
そこには、深い谷と、折れた車輪の欠片だけ。
「……そんな……」
沈黙が、完全に破られた瞬間だった。




