第三十二話 時を待つ者
◇◇◇
朝の光は、やけに白かった。
目を覚ました幼いアリサは、しばらく天井を見つめたまま動かなかった。装飾の少ない天蓋、見慣れない木目。ここは、かつて自分が生まれたはずの屋敷の一室だ。けれど、懐かしさはなかった。
――私の部屋じゃない。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが静かに折れる音がした。悲しいわけでも、怒っているわけでもない。ただ、期待していたものが、きれいに消えただけだ。
控えめなノックが響く。
「お目覚めでございますか」
扉の向こうから聞こえたのは、落ち着いた礼儀正しい声。アリサが短く返事をすると、扉は静かに開かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、白髪の執事だった。老いてはいても、背筋はまっすぐで、無駄な動きが一切ない。年齢を感じさせるのは、その目の奥に沈んだ長い時間だけだった。
「本日より、お嬢様の身の回りの手配は私が引き受けます。執事のエドガー・グランウェルと申します。お見知りおきを」
アリサは小さく頷く。
「エドガー。……よろしくね」
その声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。エドガーは一瞬だけ彼女の顔を見つめ、それから静かに目を伏せる。
「まずは朝のお支度を。学園の件につきましても、後ほどご説明いたします」
用件を簡潔に伝えると、エドガーは早速動き始めた。メイドに持たせた荷物を次々と部屋の中に運ばせていく。必要な数の衣服を整え、身の回りに必要なものを一つ一つ確認して揃えていく。手慣れたその手つきには、一切の迷いがなく、彼の有能ぶりを物語っていた。
ふと、エドガーの胸元で小さな鎖が揺れた。古びた懐中時計。何気ない仕草で、彼はそれを握りしめる。
その瞬間、景色が静かに反転する。
◇◇◇
今よりももっと幼い頃、アリサはよく笑う子だった。公爵家当主であるエリシアの腕の中で、ころころと声を立てて。
――必ず、お守りいたします。
そう誓った夜のことを、エドガーは今でも覚えている。公爵家の分家筋に連なる身として、リヴィエールの血を継ぐ者を守ること。それは職務であり、誇りだった。
アリサ失踪の報が入ったあの日、エドガーは屋敷に留め置かれた。動くな、調べるな、口を出すな。命令は簡潔だった。
自室で、彼は懐中時計を開いた。秒針の音だけが、やけに大きく響く。
そのとき、わずかな違和感に気づいた。時計が、ほんの少しだけ遅れている。だが、敢えて直さなかった。
──私の時間は動かない。正統なる者が再び戻るそのときまで。
それからの年月、エドガーは屋敷を守り続けた。表向きは忠実な執事として。裏では、公爵家を蝕むものに目を光らせながら。
正統な後継者が戻る、その可能性だけを信じて。
◇◇◇
時計をそっと離す。
支度を終えたアリサは、椅子に腰掛けたままエドガーを見上げていた。
(ああ、やはりエリシア様に良く似ておいでだ)
「……エドガー」
言いかけて、言葉を飲み込む。
エドガーは察したように、静かに口を開いた。
「お嬢様……」
うっすらと涙を浮かべ、たった一言だけ。万感の思いを込めた言葉だった。
だが、その呼びかけの意味を、互いに理解した。
アリサは小さく息を吐く。
――ここに、居場所はない。
そう思っていたけれど、ちゃんと、私を覚えている人がいた。
奪われた名前、立場、時間。それらを取り戻すには、急ぎすぎてはいけない。誰にも奪われない力を付ける、その時まで。
◇◇◇
そして時は流れ、アリサは十八歳の誕生日を迎えた。
夜、エドガーは一人、書斎で懐中時計を開いた。そして、初めて時刻を合わせる。
秒針が、正確に動き出す。
「……ようやく、リヴィエール家に正統な当主様がお戻りになりました」
誰に聞かせるでもない、執事の独白だった。
彼の時は今、静かに動き始めた。




