第三十一話 静かな覚悟
馬車が公爵邸の正門をくぐったとき、アリサは無意識に背筋を伸ばしていた。この場所を、彼女は何度も夢に見てきた。冷たい石畳も、高くそびえる外壁も、記憶の中ではいつも温かかった。
――帰ってきた。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。ここに戻れば、きっと父が迎えてくれる。そうでなければ、あの日から今日まで耐えてきた意味が、すべて失われてしまう。
扉が開き、広間に足を踏み入れた。
「お父様おかえりなさい!」
澄んだ声が弾むように響く。駆け寄ってきたのは、絹のような金髪を揺らす少女だった。
整えられたドレス、磨かれた靴。自分と同じ年頃のはずなのに、まるで別の世界の住人のように見えた。
「何、その子。汚い。私のお父様から離れなさい!」
容赦のない言葉が、アリサの胸に突き刺さる。父の背後に立つ自分を、少女は一瞥しただけで切り捨てた。
「マリア、この子はアリサ。君の姉だ」
父の声は低く、しかしどこか弱々しかった。
その一言で、広間の空気が凍りつく。
「……は? 何言ってるの? そんなわけないじゃない」
マリアは信じられないものを見る目で父を見上げる。困惑よりも先に、拒絶が浮かんでいた。
「マリア……」
父が言葉を探した、そのとき。
「まあまあ、どうしたの?」
柔らかな声とともに、一人の女性が姿を現した。完璧に整えられた微笑み。アリサが忘れようとしても忘れられなかった、継母だった。
「お父様はね、孤児院を追い出されて行き場のない、可哀想な孤児を養女に迎えたのよ」
そう言って、夫に視線を向ける。
「……ねぇ、そうでしょう、あなた」
父は一瞬だけ視線を伏せ、それから小さく頷いた。
「そうなの? お父様」
マリアは不満そうに唇を尖らせる。
「でも私、こんな汚い子と姉妹になるなんて嫌よ! みんなに笑われるわ!」
「マリア、そんなこと言わないの」
継母は優しく娘の肩に手を置いた。
「施しを与えること。これは立派な慈善活動なのよ」
慈善。
その言葉が、アリサの中で空虚に響く。
――ああ。
彼女は、ようやく理解した。自分は「戻ってきた娘」ではない。守られる存在でも、迎えられる家族でもない。ここにあるのは、都合よく作られた物語だけ。
心の奥で、小さな声が落ちる。
――帰ってこなければ良かった。
その言葉は涙にもならず、ただ静かに沈んだ。
父はそこにいた。
確かに、生きて、目の前に立っている。それでも彼は、何も変えなかった。
その瞬間、アリサは悟る。今のこの公爵家に、自分の居場所はない。
父親さえも含めて――ここは、もはや自分の家ではないのだと。けれど、不思議と胸は静かだった。
絶望の向こう側で、何かがゆっくりと形を成していく。
奪われた名前。奪われた立場。奪われた未来。それらを、ただ失ったままにして終わるつもりはない。
アリサは俯き、誰にも見えないように小さく息を吸った。そして、心の奥で誓う。
――必ず、すべて取り戻す。
それは怒りでも、復讐でもない。ただ静かな、揺るぎない覚悟だった。




