第三十話 問いかける声
◇◇◇
王宮の中庭は、夕刻になると人影が途絶える。噴水の水音だけが、石の回廊に静かに反響していた。
その日、私は公務を終え、馬車へ向かう途中だった。従者に先を歩かせ、ひとり回廊を抜けた、そのときだ。
柱の影に、誰かが立っている。年若い少女だった。身につけている外套は古く、孤児院の子だとすぐに分かる。足元には一匹の黒猫が寄り添い、こちらを警戒するように尾を揺らしていた。
「……ここは、関係者以外立ち入り禁止だ」
そう声をかけた瞬間、少女の肩が小さく震えた。
逃げるかと思った。だが、彼女は一歩も動かなかった。ゆっくりと顔を上げる。
その瞳を見た瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
黒に見えて黒ではない。光によって青く見える、深い深い水の色。忘れようとしても、忘れられるはずのない色。
少女は、唇を開いた。掠れ、震える声で。
「……とう、さま?」
世界が、止まった。
違う。
そうであってはならない。
何年も前に、あの子は――
少女は、胸元を押さえるようにして、小さなペンダントを取り出した。
雫型の飾り。細い鎖。
それを見た瞬間、すべてを悟った。
公爵家の後継者にのみ与えられる証。水の精霊の加護が宿る、ただ一つの品。
行方不明になったあの日、アリサが身につけていたもの。
「……アリサ、なのか」
声が、震えた。
少女――アリサは、小さく頷いた。
その仕草が、あまりにも記憶の中の幼い娘と重なる。
――生きていた。
私が、見ないふりをしていた間も。
孤児院。十二歳で追い出される決まり。その意味を、私は知っている。
この子は、迎えが来るかどうかも分からないまま、それでもここまで辿り着いたのだ。
胸の奥が、鈍く痛む。
「……すぐに、馬車を用意しろ」
背後の従者に命じる。声が掠れないよう、必死だった。
「屋敷へ戻る」
少女は、少しだけ目を伏せた。黒猫を抱き上げ、その温もりを確かめるように指を沈める。
「……大丈夫だ。もう、大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように、口にした。
何が、だ。
何が、大丈夫だというのだ。
彼女が戻れば、すべてが動き出す。
沈めてきた過去も、見ないふりをしてきた選択も。
それでも――
私は、初めて沈黙を選ばなかった。
馬車の扉が開く。アリサは一瞬だけ躊躇い、それから乗り込んだ。
黒猫が、最後にこちらを見上げる。
その金色の瞳が、まるで問いかけているように見えた。
――今度は、黙らないのか、と。
答えは、まだ出せない。
だが少なくとも、もう、何もなかったことにはできない。
歯車は、確かに動き始めていた。




